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ケインズ的不確実性分析vsセイの販路法則的確定分析
自分からの質問
ケインズ経済学において総需要関数を総需要額と解釈するのではなく、推定的期待需要の意味合いで解釈することで、有効需要の決定する交点が財市場における均衡との意味合いではなくなることで、総生産額=総所得額との解釈も不必要になるのではないでしょうか?ケインズ自身の経済分析においては市場に供給された製品やサービスなりが過不足なく需要されるという前提を否定していたからこそ「セイの販路法則」を否定したのではないでしょうか?
ChatGPT
総需要関数を総需要額として解釈するのではなく、推定的期待需要の観点から解釈することで、有効需要の決定する交点が必ずしも財市場における均衡を意味しなくなるという視点は、ケインズ経済学の核心をより正確に捉えることができます。これには以下のような重要な要点があります。
総需要関数と有効需要
総需要関数を推定的期待需要の意味合いで解釈することは、企業家の将来の需要に対する期待が総需要に影響を与えることを強調します。これにより、有効需要の決定する交点が必ずしも財市場の均衡を意味しないことになります。
具体的には:
企業家の期待: 企業家が将来の需要に対して持つ期待が高ければ、現在の生産量や投資が増加し、それに伴う雇用も増えることになります。しかし、期待が低ければ生産量や投資が減少し、失業が増える可能性があります。
需要と供給の不一致: 実際の市場での需要と供給が常に一致するわけではなく、過剰生産や不足が発生することがあり得ます。これが、ケインズが「セイの法則」を否定した理由の一つです。
総生産額=総所得額の解釈
ケインズ経済学において、総生産額(総供給)と総所得額(総需要)が一致するという解釈は、市場が常に均衡しているという古典派経済学の前提に基づいています。
しかし、総需要関数を推定的期待需要の観点から捉えることで、以下のような変化が生じます:
需要と供給のズレ: ケインズは市場が常に均衡しているわけではなく、需要と供給の間にズレが生じることがあると考えました。これは、供給された製品やサービスが常に過不足なく需要されるわけではないことを意味します。
非自発的失業: 期待需要が低いために生産が抑えられ、結果として非自発的失業が発生するという状況を説明することができます。
「セイの法則」とケインズの批判
ケインズは「セイの法則」を否定しました。セイの法則は、「供給が自ら需要を生み出す」という前提に基づいていますが、ケインズはこれを次のように批判しました:
需要の不足: 経済全体で需要が不足することがあり得るため、供給が常に需要を生み出すわけではない。
期待の重要性: 企業家の将来の需要に対する期待が低い場合、投資や生産が減少し、需要不足による不況が発生することがある。
まとめ
総需要関数を推定的期待需要の意味合いで解釈することにより、ケインズ経済学における有効需要の決定が財市場の均衡を必ずしも意味しないことが明確になります。これは、総生産額=総所得額という解釈を不必要にし、ケインズが「セイの法則」を否定した理由とも一致します。ケインズは市場が常に均衡するという前提を否定し、需要と供給の間にズレが生じる可能性を強調しました。この新解釈は、ケインズ経済学の真髄をより深く理解するための鍵となるでしょう。
以下の文章は、ケインズ自身が総生産額=総所得額との等式を否定した記述の引用である。
引用理由は、ケインズ自身が三面等価の原則なる経済分析の仕方を否定していたのが理解できることが引用理由である。
ケインズは『一般理論』における「第二章 古典派経済学の公準」において次のように述べている。
「 セイやリカードウの時代から古典派経済学者たちは、供給はそれ自らの需要を創造すると教えてきた。
これは、ある重要な、しかし明確には規定されていない意味においてであるが、生産費のすべては全体として、直接または間接に必ず生産物の購入に支出されなければならないということを意味する。」
続けてケインズは次のように述べている。
「産出物の費用はつねに需要から生ずる販売代金によって全体として償われるという結論は、多分にもっともらしさをもっている。
なぜなら、この結論を、もう一つのこれと同じように見える疑う余地のない命題から区別することは困難だからである。
すなわち、生産活動に参加する社会のすべての要素が全体として得る所得は、必然的に産出物の価値と正確に等しい価値を持つという命題である。」
そしてケインズは以上の考えを次のように否定する。
「このように考える人々は、二つの根本的な異なった行為を同一のものであるかのように見せる錯覚によって欺かれているのである。
彼らは、現在の消費を差し控えようとする決意と将来の消費に備えようとする決意とを結びつける連鎖があると、誤って想定している。
ところが、後者を決定する動機は、前者を決定する動機と単純な仕方で結びついているのではない。
したがって、古典派理論の「平行の公理」とみなされるべきものは、全体としての産出物の需要価格と供給価格とが均等であるという想定である。」
以上の文章は財市場における均衡を前提に経済分析を進める古典派経済学へのケインズ自身による攻撃そのものである。
ケインズの悲劇は、ケインズ研究家自体が財市場における均衡を前提に経済分析を行い続けてきたことであり、その原因は有効需要に対する解釈に起因しているのである。
日本におけるケインズ研究家の代表的存在である伊東光晴氏は、著書『現代に生きるケインズ』(P.81)の記述において、ポール・サミュエルソンの45度線分析を用いた説明を通じて次のような記述を行っている。
「総有効需要は消費需要+投資需要なのであるから消費需要だけでなく投資が一定値増えた場合には、総供給額と総需要額が一致する点は上にシフトすることとなり、総生産額つまり所得水準は増大する。」
総生産額が総供給額と総需要額の一致を意味する前提をとる経済分析が、古典派理論の「平行の公理」を意味する全体としての産出物の需要価格と供給価格とが均等であるという想定そのものであることを伊東光晴氏が理解できていないのは有効需要の誤った解釈に起因していることを軽視してはならない。
伊東光晴氏がサミュエルソンによる財市場における均衡を前提にした45度線分析を否定しないのはケインズ自身が財市場における均衡を前提に経済分析を行ったと信じているからである。
古典派経済学者による財市場の均衡は価格の変動を通じて達成されると考えるが、ケインズ研究家は数量調整を通じて財市場の均衡は達成されると考える。
しかし、ケインズ自身は『一般理論』の文中において、「数量調整を通じて財市場における均衡は実現される」などとは記述していない。
ケインズ自身は『一般理論』において、決して総生産額が総需要額と総供給額の均衡を実現させるなどと記述してはいない。
ケインズ研究家においても財市場における均衡を前提にした経済分析が重要視されたのは「総需要関数」の意味合いを「総需要額」と同一の意味合いであると解釈し続けてきたからである。
『一般理論』出版直後から推定的期待需要を意味する総需要関数に依拠した「有効需要」観が根付いていたならば、サミュエルソンによる45度線分析を通じた簡易ケインズ理論が経済分析のツールになってはいなかったと自分は解釈している。
サミュエルソンによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』に対する批評があるので以下に引用する。
「それは拙劣に書かれ、貧弱に編成された本である。
著者の以前の名声に欺かれて、その本を買った素人は5シリングを騙し取られたのである。
それは傲慢で気難しく、論争的であり、そして謝辞においても、あまり寛大ではない。
それは乱雑と混乱に満ちている。」
以上のような記述を残した人間が、『一般理論』を正しく理解できていたと考えること自体が困難である。
サミュエルソンと並んで『一般理論』におけるケインズの記述を簡明に解釈し、世に伝えたとするヒックスによるIS・LM分析にしても財市場における均衡を前提にした経済分析である。
それは、引用したケインズの言葉である「古典派理論の「平行の公理」とみなされるべきものは、全体としての産出物の需要価格と供給価格とが均等であるという想定である」という考えを否定することができない経済分析である。
有効需要に対する誤った解釈が総生産額=総所得額との解釈を世に広め、現実の経済動向を反映できてはいないGDP統計なる考えを世の中に根付かせる原因となったのである。