仕事の話

会社から独立するとは多くの会社員にとって憧れだろう。
上司から怒られることもなく、会社の利益として取られる多くの報酬を自分の手元に残すことができるのだから憧れて当然だ。

しかし、個人事業主、フリーランス、聞こえは良いがバカがはじめると大変な事になる。

俺が溶接をしていた頃、会社から独立して仕事をした時の話をしようと思う。


溶接

溶接業をしていた頃、職人気質の多い会社の中で、俺は注文書通りの仕事をするタイプだった。

10までやれと言われたら10までキッチリ仕事をするが、5でいいと言われた時は絶対に5までしか仕事をしない。

少し珍しい溶接で、俺たちが1時間作業するだけで万を越える作業費が発生する。
それを払うのは俺たちでも会社でもなく仕事を発注してくれているお客様だ。

俺は果物を切りたいだけのお客様に高級包丁を売ることはできないと言い張っていた。

それが良かったのか単純に腕を認めて貰えたのか、指名で仕事を貰えることが増えていった。

正直に言うが、俺じゃないとできない仕事なんて一つもない。
それでも海外からわざわざ船で運んでくれたり、仕様書では欠陥品は即廃棄の部品であっても依頼してくれる。
仕事人冥利に尽きる。

仕事を続けていると自分の仕事の売上がわかる。
自分の仕事として会社に入る売上が数千万になるとわかった時は自分が貰っている給料の低さに我慢できなかった。

もちろんすぐに給料交渉をした。

会社と何度も話し合ったが納得できる給与を約束してもらえず、俺は独立を決意した。

独立

会社を辞めてすぐに工場や機材の手配をする。

俺の頭にあるのは年間数千万の売上だ。

まだ若く、何も知らない俺が当然のように黒字になると考えるのは仕方ない事だったと思う。

ずっと工場で働いていた俺には営業なんて考えは頭になかったし、仕事なんて腕があれば勝手に入ってくるのだと本当に思っていた。

まず、作業ができるようになったが仕事がない。

急いで仕事を振って欲しいと付き合いのあった会社に電話をする。

前の会社に振っていた仕事をそっちに振ることはできないとどの会社からも言われる。

その仕事は俺がやっていた。そのまま俺にやらせて欲しいと頼んだが仕事はほとんど回して貰えなかった。

年間売上数千万を見込んで始めた個人事業だが、ほぼ仕事無しと言う状態で始まってしまった。

無援

俺は会社という看板の大切さと営業というスキルの大切さを思い知った。

仕事がなくても各種支払いは続けないといけない。

詳しい金額は伏せておくが、ちょっと馬鹿にならない金額にこの時ばかりは流石の俺も死のうと思った。

今からどこかに急いで就職したとしても、前の会社に戻れたとしても支払える金額ではなかった。

死ぬしかない。

死にたくない。

生きていたくない。

死ぬのは怖い。

正直めちゃくちゃ後悔したし、誰も助けてくれないことをめちゃくちゃ恨んだ。

どの方法が一番楽に死ねるのか調べたし、飛び降りたら死ねそうな場所も何箇所か下見に行った。

それでも俺は簡単に死ねなかった。

あと一歩踏み出せば死ねる。そうした方が楽になれるとわかっているのに最後の一歩が踏み出せなかったのだ。

メンタルが強かったんじゃない。本当に死ぬ勇気が無くて死ねなかった。

死ねないのなら死にもの狂いで頑張ってみよう。だって死ねないから。

ふと吹っ切れる瞬間があって逆に前向きになってしまった。

営業

俺は思いつく限りの鋳造工場に飛び込んだ。

守衛のいるような大きな工場には流石に入ることはできなかったが小さな町工場は問答無用で突入した。

屋号すらなく、名刺すら作っていない溶接できますってだけの個人の話を聞いてくれる会社なんて本当に極わずかで、世の中の信用の大切さを学んだ。

最初は無料でやるから1度だけ見て欲しい。必ず納得して貰えるはずだからと懇願し、それでも仕事が貰えない時は現場の作業員に直接話しかけて廃棄予定の鉄くずを一日だけ預かって持っていく。

正直糞ダサかったし金にもならないし泥水を啜る日々は惨めだった。

昼は回れるだけ工場を回って、夜は徹夜で仕事をする。

休む暇すらなかったが、少しづつ仕事を貰えるようになり、前の会社ほどの高単価な仕事は滅多に任せて貰えなかったが、がむしゃらな姿勢を買ってくれて客先を紹介して貰えたりしていった。

なんでも屋

なんとか一番つらい時期を乗り越えて、収入の見込みが会社員時代を越えるようになってきた頃、鋳造の需要が一気に冷めた。

リーマンショック以来、鋳鉄・鋳鋼の業界も不安定続きで、大手重機メーカーでも製造予定台数が出荷予定台数を下回る予定なんて年も普通にあった。

もちろん末端で仕事をしている俺は無関係どころか一番巻き込まれる立場で、製造ラインにいくらでも余裕がある状況では俺のやっていた溶接はほとんと需要がなかった。

そんな中でも不思議と物流は止まらないもので、運んで貰えないか、倉庫を出荷待ちの製品を預かって貰えないか等、ありがたい事に色んな話を頂いた。

次第に頼まれる仕事は多岐に渡るようになり、田植えや稲刈りの手伝いもしたし、漁港に勤める知人の紹介で大口の卸先を探したりもした。

結局は溶接の仕事はほとんどやらなくなり、何の仕事をしている人なのかわからないことになっていたが、多分、何でも屋と言うのが一番しっくり来ると思う。

それでも仕事を貰えるということがめちゃくちゃ有難かった。

後日談

紆余曲折あったが、最後には工場勤務時代より稼がせて貰っていたので成功体験になるのだろうか。

個人的には今まで生きてきた中でダントツでしんどい時期だった。
俺が苦しんだ期間は短いものだったが、それでも「あの時よりはマシだからなんとかなる」と思えるメンタルを手に入れる程に。

今でも当時の事を思い出すと「あぁ、俺まだ生きてんだよなぁ」と感慨深い気持ちになる。

今の不動産業界に入った時も最初は個人事業主として業務委託契約を取って仕事を貰っていたし、個人事業主に対して否定的な考えは一切ない。

色々な事を知っていればもっと簡単に解決できたことも今は知っている。

結局、お金のことはちゃんと勉強した方がいいという事だ。

もう少しで新NISAがはじまることもあって投資が話題になることが多い。
利回り5%で何年運用だとか、あたかも必ず儲かるかのような言い回しを良く耳にする。

もし、余剰資金以外のお金を投資で増やそうと考えているのであれば周りの詳しい人にしっかりと相談してからにして欲しい。

お金に関しては、知らなかったと言うだけで本当に大変な思いをすることになるから気を付けて。

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