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MILLENNIUM PARADE「GOLDEN WEEK」解説

ども、やきこいもです。

色々考察していく中である程度拾えたかなという感じがしたので今後も何か曲が出る度に解説していくことになると思います。「M4D LUV」はもう実質記事書いちゃってるのでそれで済ませようかなって感じで。音楽的な解説は出来ませんが、それ以外の部分で有益な解釈を届けられるかなと思っています。

MILLENNIUM PARADEを理解する上で「ポップアート」というのが非常に重要なキーワードなのですが、これは一般的なイメージであるポップと芸術性を両立させるという話とは違い、アンディ・ウォーホルが表現した大量生産・大量消費が日本音楽家の海外(アメリカ)進出という視点から描き出されたのが「GOLDENWEEK」という作品であるというのが本稿の結論となります。

常田大希とポップアートに関しては以下の記事でお読み頂ければある程度理解できるかと思います。

前置きは以上として、本題へ移ります。

タイトルの意味

GOLDENWEEKは代表的な和製英語です。和製英語は国内だけで通用する英語ということを意味しており、つまりは日本音楽業界における海外進出の正体が大概は国内でしか盛り上がっていない空虚なものであるということを表した曲名といえます。この空虚を表現する為に行われたのが東京各地を回る本曲の告知企画ではないか?と筆者は解釈しています。ある意味ではミーハーといわれるような人たちも巻き込む寛容さをと強烈な皮肉を忍ばせる毒性を併せ持っているということ。

また、後ほど深く解説しますがその文脈で本曲が引用、リファレンスにしたのが恐らく宇多田ヒカルがUtada名義でリリースした1st single「Devil Inside」だと思います。

ジャケットとMV

MVを観ると、恐らく主人公であるアケルがボクシングで敗北する場面であることが分かります。なぜこの場面を切り取ってジャケットにしているのかというと、正にこの曲が海外進出の敗北・失敗を象徴している楽曲だからです。また、MVでは海外に迎合できないアケルが日本の文化に触れて心を奪われるような演出がなされています。

キャラクターごとで海外進出の方向性が異なっていて、中でもアケルとエイサのコンビは改名前のミレパに近いバランスの楽曲になるのかなと思います。「GOLDENWEEK」では海外に全く迎合できず敗北したアケル、「M4D LUV」では鬼天使がフューチャーされて日本のアイドル文化と社会問題の密着に対する厳しい目線が垣間見える内容になっています。

花奈子、忞太、キャリの三人に関してはまだ予想できないところがありますが、忞太の183cmという身長設定はアメリカにおいて男性の長身と呼ばれる境目が6ft(183cm)というところから来ていると思います。MVの内容的にもアケルとは異なりフィジカル的にはアメリカでも劣らないキャラクターとして描かれているのは間違いないでしょう。大谷翔平(?)と重ねられるようなカットもあります。キャラクターの中でも最も貧困が強調されており、HIPHOP的な要素の強いキャラクターなのかなと予想しています。花奈子はダンスミュージック、キャリはサイケかR&Bのイメージ。

Utada「Devil Inside」との関連、日本とアメリカについて

宇多田ヒカルが海外進出一発目にリリースされた楽曲ですが、聴けば誰でも何となく「リズム似てんな?」と思うんじゃないでしょうか。

YMOで細野晴臣が打ち出した海外から見た日本という感覚は両曲共に感じられます。YMOはメンバーの高橋幸宏がグラミー賞で追悼されるほどの影響力がありましたが、現状宇多田ヒカルではそのような絵は浮かびません。別にグラミーで追悼されるから素晴らしいとか言う気もないですが、アメリカの音楽業界に対する影響力という意味ではやはり相当な差があると思います。しかし、宇多田ヒカルが国内音楽における歴史的人物ということは疑いようもない。そんな彼女がアメリカで通用しなかったという事実は日本の音楽業界やリスナーに大きな影響を与えたと思います。アニメタイアップのような日本的でありながらある意味で保守的な戦略を取りたくなるのも無理はないでしょうね。こと音楽に於いても「日本とアメリカ」の因縁は強い。

伊澤修二の行った唱歌教育によって西洋式に改造されてしまった日本人の音感。元々はペリー来航から始まる「日本とアメリカ」の物語の中で、音楽も西洋化の波に抗えなかった。このような日本人の自国文化に対する浅慮が東京のカオスな街並みに現れているのではないかという常田大希の視点は、自身もまた西洋音楽の影響を多大に受けた人物であることに起因しているのではないだろうか。

また、海外のリアクション系動画が再生数を稼ぐように、「海外の方に認められることでようやく誇れるようになる」日本人の感覚は前述の歴史からも読み取れる気がする。

ジャニーズ創設者・ジャニー喜多川の所業が死後、BBCによって糾弾されたことも、日本が常に外圧によって変化していった国家であることを証明している。しかし、寧ろこの軽薄さが日本の強みであると常田大希は考えているのだろう。まだまだ語れることはあるものの、以上のことからミレパがアメリカを主戦場として戦うのは当然の帰結といえる(話ズレたね)

歌詞にも共通して「悪魔」と「天使」が出てくるんですよね。宇多田ヒカルの場合は海外進出一発目ということもあり、国内では出せない自己の発露がリリックに現れています。宇多田が「私は皆が思っているような天使じゃない」というような内容を歌っているのに対して、ミレパは「悪魔を手放すべきなのにできない」という葛藤です。夢なのか現実なのか分からない。これは言い換えれば本当なのかウソなのか分からないという感覚でもあり、現代では誰しもが持っているものだと思います。

宇多田はアメリカでインパクトを残せず、2010年に行われたワールドツアーでは1000人規模の箱ですら埋めることが出来なかった。同年、宇多田は人間活動と称して活動を休止した。詳細は分からないが、今の自分に限界を感じたのかもしれない。

宇多田ヒカルは「失敗」した。しかし、なぜミレパは宇多田ヒカルをリファレンスにしてまで「失敗」を演出するのか?というのは当然の疑問だろう。

一つ目は、神格化されたくないから。これは常田大希がKing Gnuの4th albumリリース時のコメントでも語られている通りだ。宗教的なファンダムが嫌いなので、賛否両論を意図的につくる。本気の弾はその後に出すという流れが今後は通例化するかもしれない。もしかしたら常田大希が問題発言とかで炎上するかもしれないが、本来アーティストの役目というのは世の中に問題提起することでもあると思うのでガンガン炎上してほしいと思う。日本のアーティストは炎上が足りないよ!カニエとかマシュー・ヒーリーを見習え!やっぱりカニエはダメ!

二つ目は先述した通り、常田大希は「ポップアーティスト」だから。勿論この「ポップアーティスト」というのはポップスをつくるアーティストではなく、ポップアートの意です。ポップアートは大衆とアートの接続という機能を持っていて、それこそ常田大希がKing Gnuでやってきたことにも通ずる。しかし、音楽におけるポップアートのアプローチは実験性(或いはクラシックやオペラといった伝統音楽)とポップスを両立させる形に終始しており、ウォーホルのように一見アートには見えないものをアートにするという視点は未だにない。常田大希は音楽におけるポップアートのアプローチとしてもっと面白いことがしたいと語っている。

ミレパのテーマとして「多様性」があるが、この言葉が持っている何でもありな攻撃性というのはやはり問題だと思う。アメリカではそれが悪い形で噴出してると思います。大切なのは「多様性」を使って他者を攻撃することではなく、一人一人が軸を持ち、適切な距離を保つ。即ちテリトリーを侵害しないことなんじゃないかということ。こういう感覚って日本人には強くあるものだと思うんですよね。それが他者に無関心と言われる東京という都市の特異性じゃないかと思います。少なくとも私は東京が好きです。

例えば私が「ゲイ」だったとして、それを一々悪く言うもんじゃない。ゲイなんだ、へえ。これで良いじゃないですか。ミレパが理想とする多様性のイメージってこれだと思うんです。まあ他国文化を取り入れすぎた結果、自国文化という軸を失いかけているのはミレパが問題視していることでもあると思うんですが、こういう柔軟さを日本独特のものだと捉えるのは発想として面白いと思います。だから今一度、自国の文化を掘り出しつつ東京の多様性を表現するのが常田大希のやりたい事なんだろうなと思います。

だから、自国文化に関してはアケル&エイサコンビの役目なんじゃないでしょうか。他キャラは多様性枠という感じで。

まとめ

話ズレまくりでしたけど、日本は文化的に非常に面白い国だと思うし、音楽含む停滞気味な世界のアートシーンを先導していくのは日本だと思ってます。ミレパの活動によってアジア=中国みたいなイメージから日本が独立して、東京という都市の価値やイメージみたいなものを世界規模で刷新していったらめちゃくちゃ面白いことになるんじゃないか?ミレパならきっとやってくれる。多分10月以降、面白いことが起きますよ!

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