男女間のパートナーシップ"市場"の自由化と進歩的価値観の導入がもたらす副作用は、枚挙に暇がない。
しかし、本当に"自由"や進歩的価値観(a.k.a.リベラル)が原因なのだろうか?
学校化とネガティブチェック
先日このインタビュー記事を見て目が覚めた。
記事は、全体を通じて「出世圧力」と「モテ信奉」の根深さを問題視する。
しかし『相手の良いところを見つけるのではなく、粗探しをしてしまいやすく、「選択」ではなく、「排除」に陥ってしまっている』のが、問題の核心なのではなかろうか。
この「排除」に陥いる構造として、インタビューを受けて答えた奥田教授はネガティブチェックを挙げている。
ここで思い出したがのが「(日本的)学校化」という概念・タームだ。
「(日本的)学校化」とは「家族や地域が学校的物差しで一元的に覆われる」現象と考えて欲しい。( http://www.miyadai.com/index.php?itemid=653 )
それでは「学校的物差し」とは何か?
私が想定するのは、ペーパーテストの成績や内申書に書かれるような評価である。
この程度だったらまだいい。
問題は、このような「学校的物差し」による評価の構造にある。
それがネガティブチェックである。
言い換えれば減点法で他人を査定する"心の習慣"と言ってもいい。
これが他人の粗探しから排除に至る心理的メカニズムである。
それをリスク回避の文脈として指摘したのが、この記事だ。
リスク回避ではなく規格外の人間を弾くシステム
上述記事は現代社会は「『内側の人』だけが尊重される社会」であるとし、こう指摘する。
そして障害は社会が作るものだ。
精神分析の人の言う「神経症の時代から精神病の時代を経て、今は自閉症の時代」に似ているが、こちらは規律訓練が必要な時代から、妄想の共有可能性が信頼不可能な時代を経て、今は社会性が不要な時代、という含意がある。
一方で、「規格外の人間を弾く」背景には社会心理学者の山岸俊男氏が指摘する、内集団vs外集団構造があり、内集団のホメオスタシス維持という動機がある。
日本人の集団主義的な振る舞いは内集団のエゴによる動機付けに起因するという「不都合な真実」。
これが「規格外の人間を弾く」システムの真相だ。
そして、このような査定による人間の選別というのは、学校システムのやり方そのものではなかろうか?
学校化から"企業"or"役所"化へ?
日本の学校システムとは、ホリエモンが喝破したように「合格した大学・学校の名前が大事」という特徴があり、これは本来は業績として扱われるべき学歴が属性として扱われるという本質の反映である。
したがって組織における学閥とは、組織風土や組織文化をホメオスタティックに維持するために存在する。
ここまでは上述の山岸俊男氏の指摘通りでしかない。
他人を属性で見定めるという心の習慣が個人間や家庭に持ち込まれるとどうなるか、という問題は以前にnoteに書いた。
そこで引用した議論を再び引用する。
他人の扱いが会社組織が個人を扱うやり方と全く同じ、という状況が出てきているのだ。
これが"企業"or"役所"化という言葉で表したかった現象である。
そして排除へ
そして、カテゴリーで他人を扱うやり方は、アイデンティティ・ポリティクスと相性が良い。
更に被害者意識・被害妄想が人間を攻撃的にすることを思い出そう。
そのオチは上の拙稿で指摘した通りになるだろう。
誰もが他人をカジュアルに排除・攻撃する社会、というのはもはや社会の体を成していない。
統治権力への信頼も無いから自力救済するしかない、というホッブズ問題が現実のものとなってきている。