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【暗黒メモ】選択という名の排除

男女間のパートナーシップ"市場"の自由化と進歩的価値観の導入がもたらす副作用は、枚挙に暇がない。

しかし、本当に"自由"や進歩的価値観(a.k.a.リベラル)が原因なのだろうか?

学校化とネガティブチェック

先日このインタビュー記事を見て目が覚めた。

国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」では、「結婚できない理由」として最も多い回答は男女ともに「適当な相手にめぐり会わない」という傾向が20年以上続いています。しかし、出会いの数が多すぎることがかえって結婚を遠ざけていると私は考えています。
昔は、職場など身近な半径5メートル以内で巡り合った人をいい意味で、“運命の人”だと思えました。出会いに溢れた現在は、そうした尊さが全くありません。「来週また婚活パーティーがあるから」などと思うと、男女ともに相手の良いところを見つけるのではなく、粗探しをしてしまいやすく、「選択」ではなく、「排除」に陥ってしまっているのです。

記事は、全体を通じて「出世圧力」と「モテ信奉」の根深さを問題視する。

しかし『相手の良いところを見つけるのではなく、粗探しをしてしまいやすく、「選択」ではなく、「排除」に陥ってしまっている』のが、問題の核心なのではなかろうか。

この「排除」に陥いる構造として、インタビューを受けて答えた奥田教授はネガティブチェックを挙げている。

ここで思い出したがのが「(日本的)学校化」という概念・タームだ。

「(日本的)学校化」とは「家族や地域が学校的物差しで一元的に覆われる」現象と考えて欲しい。( http://www.miyadai.com/index.php?itemid=653 )

それでは「学校的物差し」とは何か?

私が想定するのは、ペーパーテストの成績や内申書に書かれるような評価である。

この程度だったらまだいい。
問題は、このような「学校的物差し」による評価の構造にある。

それがネガティブチェックである。
言い換えれば減点法で他人を査定する"心の習慣"と言ってもいい。

これが他人の粗探しから排除に至る心理的メカニズムである。

それをリスク回避の文脈として指摘したのが、この記事だ。

リスク回避ではなく規格外の人間を弾くシステム

上述記事は現代社会は「『内側の人』だけが尊重される社会」であるとし、こう指摘する。

家族にしろ学校にしろ会社にしろ、その組織に属する「内側の人」を差別的に扱ってはならないという人権意識の高まりは、社会全体の厚生を着実に高めていることは間違いない。
生まれもった性質ゆえに、人間関係構築や会社組織でのオペレーションに困難を抱える人びとがいる。そうした人びとを「発達障害」とか「パーソナリティー障害」とした枠組みで捕捉し、適切な社会的支援を講じる機運が高まっている。こうした営為は、どのような人でも全人格的に肯定されて生きることのできる社会を目指すためには不可欠なことである。
しかし同時に「自分たちと協働する仲間として内側に入れると手厚くもてなさなければならないのだったら、内側に入れてしわないように入り口の段階で排除しよう(私たちにはそんな人を抱える余裕はないのだから)」というインセンティブが高まってしまうのだ。それはリソースを豊富に持たない中小企業、あるいは個々人の付きあいのなかでは顕著にあらわれることになるかもしれない。有限のリソースをすべて「配慮」に回すことはできないのだ。けっして豊富とは言いがたいリソースを持つ者にとってはなおさらである。
あたかも社会階層の研究調査のような趣を呈する性的なパートナーシップも、不適性検査を採用する企業も同根の問題なのだ――「人を尊重すること、そのリソースを惜しみなく拠出すること」を時代が要請すればするほど、「リソースがかかりそうなハイリスクな人は避けよう」という反動が形成されることになる。

そして障害は社会が作るものだ。

精神分析の人の言う「神経症の時代から精神病の時代を経て、今は自閉症の時代」に似ているが、こちらは規律訓練が必要な時代から、妄想の共有可能性が信頼不可能な時代を経て、今は社会性が不要な時代、という含意がある。

一方で、「規格外の人間を弾く」背景には社会心理学者の山岸俊男氏が指摘する、内集団vs外集団構造があり、内集団のホメオスタシス維持という動機がある。

宮台: 山岸俊男さんが実証的なデータから明らかにしたことですが、日本の文化は集団主義ではなく、非常にエゴセントリックでセルフィッシュだということです。内集団、外集団、包括集団問題です。地域や家族、会社といった所属集団を内集団と言い、自分が所属していない多くのものを外集団と言います。僕たちが外集団に所属する人と絶えずコミュニケーションをしなければいけない場合には、どの集団にも属していないプラットフォーム、つまり包括集団が必要になり、それが欧米における市民的公共性、あるいは市民的公共圏、パブリックということです。ところが山岸さんによると、日本は江戸時代の全盛もあり、内集団の内側だけで生きていくことができ、外集団の人間とコミュニケーションをするチャンスがありませんでした。そのため、どの集団にも属さない、公共的なプラットフォームが必要なかったんです。
だから日本はいまだにパブリック、公共あるいは市民的公共圏という概念がないし、これからもできないだろうということです。したがって、日本の滅私奉公は、自分が所属する内集団のために自分を犠牲にすることで、東電社員のようなものです。日本がどうなろうが、東京電力のために自分が持っている倫理的な善悪もすべて捨てて尽くします、となります。これが日本人の鑑なんですよ。自分が所属する内集団のことしか考えない、エゴイズムしかありません。
山岸さんの考え方によれば、これは長い何百年という伝統によって培われた僕たちのエートス、変えられない行動の構えなので、日本はこれでやっていくしかないんです。どこまでやっていけるのかを考えると、やはり終了の予感が強いですね。

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https://ch.nicovideo.jp/videonews/blomaga/ar1714171

日本人の集団主義的な振る舞いは内集団のエゴによる動機付けに起因するという「不都合な真実」。

これが「規格外の人間を弾く」システムの真相だ。

そして、このような査定による人間の選別というのは、学校システムのやり方そのものではなかろうか?

学校化から"企業"or"役所"化へ?

日本の学校システムとは、ホリエモンが喝破したように「合格した大学・学校の名前が大事」という特徴があり、これは本来は業績として扱われるべき学歴が属性として扱われるという本質の反映である。

したがって組織における学閥とは、組織風土や組織文化をホメオスタティックに維持するために存在する。

ここまでは上述の山岸俊男氏の指摘通りでしかない。

他人を属性で見定めるという心の習慣が個人間や家庭に持ち込まれるとどうなるか、という問題は以前にnoteに書いた。

そこで引用した議論を再び引用する。

宮台: 僕は「感情的安全」と申し上げています。それはつまり、言葉の外側で繋がれるかどうかです。社会には会社を含めて組織がありますが、組織は人をカテゴリーで扱うしかありません。優秀な社員/優秀じゃない社員とか、前向きな社員/引っ込み思案な社員などのようにカテゴライズして、人事査定していきます。それで出世できるかできないかも決まります。しかし、社会がそうであるぶん、家族というのは本当はそうであってはいけない空間です。「お前はそういうカテゴリーには収まらない。おれは本当のお前の姿を知っているから、外で何を言われてもきにするな」という風に扱うべきなのに、親が会社組織で自分が扱われるのと同じやり方で、子供に対して「お前はできる子/できない子」などという、本当にどうしようもないカテゴリーで把握します。親自身がそういうコミュニケーションの中にいて、そこから離脱できないがゆえに、言葉の外でつながるということができません。基本的に「言葉の暴力」というと、汚い言葉とか、抑圧的な言葉を思うでしょうが、そうではなく、カテゴリー一般が暴力になるのだというのが、フロイトの発想です。

信田さよ子氏:従来の家族観を変えなければ児童虐待はなくならない
https://ch.nicovideo.jp/videonews/blomaga/ar1838168

他人の扱いが会社組織が個人を扱うやり方と全く同じ、という状況が出てきているのだ。

これが"企業"or"役所"化という言葉で表したかった現象である。

そして排除へ

そして、カテゴリーで他人を扱うやり方は、アイデンティティ・ポリティクスと相性が良い。

更に被害者意識・被害妄想が人間を攻撃的にすることを思い出そう。

そのオチは上の拙稿で指摘した通りになるだろう。

誰もが他人をカジュアルに排除・攻撃する社会、というのはもはや社会の体を成していない。

統治権力への信頼も無いから自力救済するしかない、というホッブズ問題が現実のものとなってきている。

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