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過剰包摂と中間層崩壊の側面#2:ヘイトスピーチとは"誰かを叩き出すゲーム"

日本人であれば大多数が中間層・中流階級として包摂されてきたが、バブル崩壊で経済的余力が失われていく過程で、"叩き出し"のゲームが始まった。そういう状況下で転落という形で"叩き出される"恐怖からくる埋め合わせの行動と、一方で積極的に"叩き出そう"とする動きの両方があるのではないか。

今回はヘイトスピーチやヘイトクライムの背後にある、"差別"に見える言動の背景を考えてみたい。

今時の"排除"の光景

「リベラルとは限られた範囲での平等主義」である。そして「包摂は排除を必然的に伴う」。そのことの実例を挙げているコラムがある。

家族にしろ学校にしろ会社にしろ、その組織に属する「内側の人」を差別的に扱ってはならないという人権意識の高まりは、社会全体の厚生を着実に高めていることは間違いない。

(中略)

公私の場面を問わず広がる「人間の本質への(差別スレスレの)スクリーニング」は、この平和で安全な現代社会において残された最後のリスクが「人間自身」であることを色濃く反映している。皮肉で哀しいこととしか言いようがないが、現代社会における人の尊厳や人権の高まり、またそれを尊重することを要請する人権感覚の高まりこそがその背景にあるのだろう。
「内側の人」となればその厚生は大いに与えられるが、しかしその門をくぐるためには、幾重にも設けられた「不適性検査(ただしなぜか差別には当たらない)」を突破しなければならない。「内と外の断絶」が深まる社会は、もう間もなくやってくるような予感がある。
「人の尊厳を守る社会」であると同時に「人こそが残された最後のリスクである社会」は、人に対してやさしく寛容であると同時に、また別の人にとっては冷酷で疎外的な正反対の顔をあわせもつ。私的選択の自由、経済活動の自由の名のもとに、淘汰の時代が到来する。

重要なのは"選ぶ自由"とコインの表裏の関係として"選ばれない"がある、という点だ。これが「包摂は排除を必然的に伴う」の本質である。

今時のリベラルがホザく"多様性"の内実は黒人公民権運動以前のアメリカの人権意識と変わらない

その一方で「多様性が大切だ」の類の言明には、必ずある種の前提がある。

宮台:そう。実は「多様性」っていつもそうなんだ。アメリカ建国事情を離れて言うと、どんな多様性も一定の境界線を引いた上での「多様性」でしょ? それをハッキリさせたのがシャンタル・ムフやエルネスト・ラクラウらの「ラディカル・デモクラシー」という思想的一派だった。これは巷で言われる「多様性を認めない者を、多様性として許容しない」というよくある話には留まっていない。もっと根源的なものなんだよ。
 象徴的なのは、リベラルが唱える「平等主義」が、一定の境界線内での「我々の平等」に過ぎないこと。コスモポリタンにまで枠を拡げても、所詮は「人間の平等」に過ぎない。ちなみにハーバーマスが言うように、今後は「人間よりも人間らしいAIや改造哺乳類」が出て来るよ。多くの人は「ウヨ豚みたく劣化した人間」よりも「人間より人間らしい改造イルカやスーパーAI」を仲間にしたいはずだ。つまり、今はもう「人間の平等」じゃ済まないんだよ。
 いずれにせよ、「リベラリズム」も「多様性主義」も、「境界線の外に対する無関心」と両立する。トランプが大統領になった時「かつて民主党員だったのに排外主義を唱えるのはなぜ?」と言われた。でも民主党を支持しながら排外主義者であるのは全く自然なんだ。実際、イギリスでは、排外主義的なブレグジットに労働党支持者の3分の1が賛成したでしょ?
 結局「白人の国アメリカ」という共和党の旗も、「移民の国アメリカ」という民主党の旗も、建国の伝統ーー想像的同一性(共同幻想)ーーに根ざしている。でも、それらが互いに矛盾して反目するんだ。アメリカにはよくある話だよ。連邦政府とは異質なニューヨーク州クオモ知事の強権的ロックダウンを巡って、共和党支持者が連邦政府による州への介入を求めたのもそうだった。「連邦政府は州政府に介入できない」と民主党支持者がいうのも伝統だけど、「連邦であれ州であれ、政府は個人のセルフヘルプ(自助)に介入できない」と共和党支持者がいうのも伝統なんだ。

そして、この対談記事の2ページ目で宮台真司はこう指摘する。

 彼(引用者注:哲学者のリチャード・ローティのこと)は言う。リベラルは「座席が余っている時の思想」だ。座席に余裕があるから女や黒人やヒスパニックが座ってもいい。白人男の座席が侵されないからだ。でも90年代以降は座席数がどんどん減って白人男が座れなくなった。誰かを叩き出さなきゃいけない。誰を叩き出すのか。昔は座っていなかった有色人種や女を叩き出す他ない。思えば、1964年以前は女も黒人も一人前の人間だと認められなかった。つまり、人権があるとは思われていなかった。
 ローティいわく、人権思想や人間主義は「白人男性アメリカ人」の内側の話。それがアメリカの伝統だ。だから、座席が減ったら当然有色人種と女が叩き出されるしかない。これって今のオルトライトの思想そのものでしょ? それを1990年代のローティが予言した。むろん擁護したんじゃなく、そうした思想が出てくるのは確実だと予測したわけだ。そして、予測通りになった。彼が言いたかったのは、「70~80年代にアメリカがリベラルな国になったと見えたのは座席余りによる幻想」「座席が不足したら引っくり返る」「リベラルなんて所詮はその程度」という話だった。なにせ予測が当たったので、ローティが正しかったという他はないよ。

言い換えると「リベラリズムとは限られた範囲での平等主義」である。リベラリズムの恐ろしい本性はそこにある。

典型的な例が1960年代のアメリカで炎上した黒人公民権運動だ。運動以前はいわゆる黒人、アフリカ系アメリカ人は人間として社会的に扱われていなかった。そう、黒人公民権運動とは、アフリカ系アメリカ人を"人間"としてアメリカの白人中心社会に認めさせるための運動だったのである。

この"人間として認められる"ことが、いわゆる社会的包摂である。ところが世界的にはグローバル化の影響による中間層瓦解現象や、日本国内ではバブル崩壊以降の、いわゆる"右傾化"現象や最近ではヘイトスピーチといった動きも含めて、逆に排除という名の叩き出しへと反転していく。

特に本邦で見られる事例を具に見ていくと、日本人か日本人でないかの線引きを巡って争うパターンが専らである。あたかも黒人公民権運動以前の、アメリカの白人のアフリカ系アメリカ人に対する目線に似ていないだろうか。

"助け合い"が成り立たない現代社会

少々遠回りをして「社会システム」⇔「共同体・生活世界」で考えたときに、リベラリズムというのは「社会システム」の枠内で「共同体・生活世界」の"助け合い"による便益の分配を再現するための思想的枠組みなのではないか、という観点で考えてみたい。

というのも「共同体・生活世界」における"助け合い"とは、交換(exchange)ではなく、余剰(excessiveness)の応酬が本質だからだ。

お互い、え~そんなこともやらなくてもいいんだよ、ということをやると、別の機会にそれをやった人が更に別の人にそれをしてもらう、という連鎖が回る状況、それが"お互い様"の本質である。これが「情けは人の為ならず」の本意でもある。

「社会システム」の話に戻れば、あらゆる便益を「社会システム」を構成する行政や市場から調達する状況になってしまえば、「共同体・生活世界」は不要になってしまうし、そのことでとにかく自分さえポジション取りできればいい、とりあえず自分だけ生きていられただけ、何とか食えればいいという考えの人間が増えてしまう。

この状況でリベラリズムと言っても、いかに自分の取り分を増やすかというポジション取り、座席争いが勃発して社会システムの安定性が保証できなくなる、そう理屈としては言える。言い換えると、最初はうまく回っているように見えるが、そのうち焼き畑化して回らなくなってしまう。

そう、リベラリズムは、リベラリズムによっては作り出せない前提に依存するが、その前提をリベラリズムの作動が壊すのだ。

社会に余裕のない時代のリベラリズムはトライバリズムに堕落する

この叩き出し現象の背景は、抽象的な言い方をすれば、座席が少なくなったので、座先争いをすると同時に、誰を叩き出すかを争う政治的なゲームをするようになった。そして座席が少なくなったのは、先進国の経済的余裕がグローバル化による経済構造の転換や移民受け入れ、高齢化によってリソースの余裕が少なくなってきたからである。

このような状況下で始まった"叩き出しのゲーム"は、社会を分断していく。内田樹のブログ記事「医学生ゼミナールの質疑応答」で、内田樹は社会の分断をトライバリズムと呼んでいる。

Q:過度なグローバリズムによって国民経済が疲弊することで「ネイションへの回帰」が起こるとエマニュエル・トッドが言っていましたが、フランスのルペン率いる国民戦線やトランプなど「反グローバリズム」に親和的な政治勢力は排外主義的な傾向があると思います。どのようにしたら国際協調(あるいは国内の融和)と国民経済(国民を飢えさせない)を両立できるでしょうか。
A:グローバリズムというのは言い換えると「無国籍主義」「徹底的な個人主義」のことですから、それに対する反動としてある種の「集団主義」が登場してくることは歴史的必然だと思います。
問題なのは、グローバリズムへの反動が強すぎて、行き着く先が僕たちが扱い慣れている「ナショナリズム」ではなくて、もっとずっと野蛮で暴力的なその先駆的形態、前近代的な「トライバリズム(tribalism)/部族主義」になりそうだということです。
ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、いま起きているのは「ナショナリズムの復活」ではありません。もっと狭隘で、もっと排他的で、もっと暴力的な「ネーションの分断」です。人種、性別、宗教、政治的イデオロギー、性的指向、出自、階級、財産、学歴などさまざまな指標で「ネーション」が分断されています。
例えば、日本の「自称ナショナリスト」たちの主務は「誰が日本人ではないか」という選別と排除です。在留外国人はもちろん「非国民」とみなされますが、政府の政策に反対する人間も「反日」認定され、「在日日本人」という「二級市民」に類別されます。
近代のナショナリズムというのは本来、それまでばらばらに対立していた集団を統合して、「国民」という「想像の共同体」を立ち上げようとした力業です。幻想による集団統合ですからもちろんかなり無理があります。それでも「国民」のサイズをできるだけ大きなものにしてゆくという目的は悪いものではなかったと僕は思います。サイズを大きくするためには成員の多様性をある程度までは認めなければならないからです。
トライバリズムはナショナリズムとはベクトルが逆のものです。それまでなんとか想像的に統合されていた集団を分解して、「ほんとうの国民/偽の国民」の間に分断線を引いて、集団を純血化し、集団を小さくしてゆくことをめざします。
ナショナリズムとトライバリズムを混同してはいけません。
例えばアメリカではトランプは国民を意図的に分断することで政治的浮揚力を得ようとしましたが、これはトライバリストのやり方です。一方バイデンは選挙後に「トランプ支持者を含めて全国民を代表する」と宣言しました。これがナショナリストの言い分です。
ルペンやトランプや世界の「排外主義者たち」はトライバリストであって、ナショナリストではないというのが僕の考えです。
国際協調と国民統合を両立させるためには、「純血」や「純粋」をめざす集団よりも、できるだけたくさんの人たちを「身内」「同胞」として迎え入れることのできる寛容な集団の方が好ましい。でも、そのために使える政治的な装置は手元には「ナショナリズム」しかありません。いきなり「70億人類はみな同胞です」と言っても、70億人を同じ統治システムの中に繰り込み、同じ法に従わせることは不可能です。
だから、とりあえず手元のナショナリズムを改良して、「できるだけ害が少なく、利益の多いナショナリズムのかたち」をみんなで考えて、手作りしてゆくしかトライバリズムに効果的に対抗できる道具はないのではないかと僕は考えています。 

このメカニズムが昨今言われる、旧西側諸国で見られる分断の構図を生んでいるのではなかろうか。余裕の無さが叩き出しの形で分断を生むのである。

"叩き出し"のゲームの時代

以前にも部分的に包摂と排除に触れるnoteはアップしている。それぞれ個別の事象へのコメントの形をとっているが、簡単に振り返ってみよう。

とにかくリスクを排除するためには、リスク評価を基準に特定個人をシステムから叩き出すことも厭わないのが現代社会の特徴である。このことを指摘したのは、ジョック・ヤングというアメリカの社会学者で、これは後期近代(ポスト・フォーディズムの時代)の特徴であると指摘した。いわゆる「排除型社会」である。

そうやって「排除」された人間は「社会改良への回路」を持たないがゆえに、社会に対して復讐する動機付けを持つ。これが事ある毎に発生する通り魔や猟奇的事件、果てはテロ事件に至るまでの背景にあるのではないか、という指摘である。

この見方は自分のオリジナルではなく、発生から20年を過ぎてしまったアメリカの911テロの分析でも指摘されたことでもある。

これもジョック・ヤングの「排除型社会」のロジックを援用して分析した。

工業を中心とした産業構造が変わって、労働集約型産業が弱体化していくと、就労から家族生活までの関係性(包摂型社会)の解体が起きる。まさに中間層の没落現象そのものだ。
そして生産労働への適合的な在り方が強制されなくなった一方で、不適合な存在をリスク評価の観点で社会から排除していくようになる。
ここまでを踏まえて「大人になることを社会から拒否された」という見方を解釈すると、氷河期世代に就職できなかった人間は「大人として社会に包摂されなかった」。ところが「社会に包摂されない」が、当人はリスクがあるから排除されたのだ、という解釈に昇華してしまう。ここが問題だった。
たまたま椅子取りゲームの椅子が少ない時代にイスに座れなかったという敗者というだけで、リスク要因として社会から排除された、という構図。

(中略)

中間層の崩壊、没落という現象が進んでいるが、中間層から没落した層というのは、これまで中間層が享受・共有していた既得権益にあずかれない。この中産階級の「座席数の急減」により「誰かをたたき出すゲーム」が始まった。

この時は触れなかったけれども、日本の正社員雇用はある種のボーイズクラブ的な要素があるのは否定できず、このことをメンバーシップ型雇用と世間は呼んでいるだけなのだろう、という見方をしている。

元々中間層なり中流階級というラベルで誰もが平等なようで、実は出自による(良い意味で問題にならない)違い(別名"多様性")や格差が存在していたのだが、皆が中間層なり中流階級という集合に包摂されていて、昔はそのことが分からなかったのではなかろうか。

ジョック・ヤングの言う過剰包摂社会とは、「格差や貧困があっても個人がそれを感じずに済む社会」のことだが、それを自分なりの言い回しで書いただけである。

格差や貧困があってもそれを感じずに済ませられた時代が終わり、底が抜けていることを知ってしまった。抜ける底なんて元から無かったのにもかかわらず。

"在特会"現象の背景

上に見てきたように社会も余裕が無くなり、そして転落への恐怖から、下層へ誰かを叩き出すゲームが大々的に行われる時代である。

そういう背景の中で、叩き出す対象を"日本人でない人"とするのは分かりやすい。例として韓国・朝鮮系(いわゆる半島系)がターゲットになるという"在特会"問題を考えてみよう。

左翼というのはずっと嘘をついてきたんですよ。 つくる会(*1)がそのことを持ちだしたのは、いや、つくる会でなくてもいつか誰かが持ちだしたんです。つまり、在日の方々が大半が強制連行されたかのような虚構を左翼は吹いてきた。一旗揚げるために来たというのが実は大半なんです。戦後日本の左翼は弱者性を顕揚するために、ある種の比喩として(強制連行されたという)嘘をついてきた。僕なんかも小さいころは左翼が言ってた教育を真に受けてたから大半は強制連行だと思ってましたけど。そして半島の方々は乗ったんですよその嘘に。それは弱者利権があるからです。それによって政治的なポジションや経済的な権益が得られるのでその虚構に乗った。左翼も、日本における左翼的なレジームを国民に定着させるために半島人を利用したんだ、ということを語り伝えればいいのに、それをやらなかったため、途中から左翼自身も本当にその物語を信じてしまうようになった。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=866 より

ちなみに、「在日=強制連行」という虚偽図式を吹聴したのは、在日ではなく日本の左翼です。在日は「どうせ日本は悪いことやったんだから」という感じで、強制移動だったかどうかは別にして左翼の虚偽図式に乗っかりました。心情的にはこの政治的のっかりを理解しています。

これは一つのサンプルだが、肝心なのは"弱者利権"である。ズルをしている、あいつらだけ美味しい思いをしている、等の妬みからくる動きである。

これはvictimhood culture批判と同型であるが、最近は被害者ポジションを争うゲームへの批判も見られるようになったことは歓迎したい。

一方で"在特会"側の動機付けの背後には、"施しを与えてやっているのにデカい顔すんな"という心情と、そもそも"施しを与えるだけの余裕がない"という気分と、2つの要素があるように思われる(釘を刺しておきますが、ここは独自見解)。

だから"お荷物を叩き出す"のである。

同じ土地で暮らしているのだから、というロジックが通用しなくなり、些細な差異で分断して騒ぐ。それは縮みゆくパイの取り分を確保せんと己のポジション取りに勤しむ姿である。

まとめ

社会的、経済的な余裕のない状況で、己の取り分とポジションを確保するのに個人が必死になる社会。そこには余剰の応酬で成り立つ共同体・生活世界は存在しえない。

そして、ますます人間は社会システムにしがみつくしかない。

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