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過剰包摂と中間層崩壊の側面#8:修学旅行中止騒動に見る"社会の終わり"

久しぶりのこのシリーズ、今回は学校を巡る分断を取り上げる。

修学旅行中止の阿鼻叫喚

新型コロナウイルスによるパンデミック終息のゴールポストは遠のくばかりだ。

その結果、修学旅行の縮小、延期、旅程変更の末に「中止」となったケースが続出。

ただでさえ休校やら行事中止が相次いでパンデミック以前とは全く異なる状態が2年も続き、この調子だと入学から卒業までパンデミック下の時代を過ごして、パンデミック以前に卒業した世代と全く異なる体験をした世代が生まれるのは確実である。

せっかく楽しみにしていた遠足が雨で中止、という感覚の延長線上で考えてみたくもなるが、実はこれが問題であった。

こちらのコラムによるとTikTok上では、修学旅行中止を嘆く中高生の動画が多数投稿されているという。

ところがである。

これとは別の個人的な筋では、修学旅行中止でスカッとした、救われたという声が多いという話を聞いた。

修学旅行中止肯定派の言い分の最大公約数を取るとこんな感じだ。

陽キャの連中は楽しいだろうけど、自分のような陰キャには楽しくもないし居場所もないから、修学旅行が中止になって良かった…

ここでも陽キャ・陰キャの分断か?!と思うわけだが、問題はもう一つある。

修学旅行中止が全国的に発生しているということは局所的な事象ではない。それにもかかわらず、白饅頭氏は「修学旅行中止を嘆く」側を取り上げ、一方で修学旅行中止肯定の声が多いという話も耳に入るのはなぜだろうか?

今までは対立するようなことでも、分断の原因になるようなことでもなかった事柄が問題化したというよりも、今まで可視化されていなかった断層が可視化されただけではなかろうか、というのが自分の仮説だ。

自由と時間を返せ!

2020年春からの老人vs若者の分断。大概がコレだ。

これは投票を通じた政治への影響力の世代間格差もある。

その結果が、この岸田政権スタイルである。

内閣支持率や政権の安定を巡るパラメーターが2020年春から変わってしまったことを岸田内閣は重々承知しているという指摘だが、それ以前に"自粛が我慢できない"という心情が出てこようが、"数の力"で抑え込んでいる、というスタイルだ。

そうなる前の2021年8月の時点で、白饅頭氏はそのような形の反発を取り上げていた。

そういう"自己中な老害連中"の戯言が実社会を動かしている、ということへの反発、そのマグマは着実に溜まっていると見て良いだろう。

もう2年も前の話だが、富山県出身の京都産業大学の学生が新型コロナウイルスに感染していて、その状況で富山に帰省していた結果、富山県内で感染が広まり始めたという出来事があった。

学生の実家が大変なことになったらしい、という噂がネット上を駆け巡ったわけだが、嘘だろうとこういう騒ぎに巻き込まれたくないゆえに、「若者は外出禁止!」と吹き上がる。

自覚なき"非マイノリティ・ポリティクス"

これらの例を見て思うのは、この世に影響力を与えるには「声が大きい」のが良いのか「数が多い」のが良いのかという点において、もはや若いというだけで影響力が行使できないどころか、"寝首も掻けない"という現実がある。

そうなると自分が不利な状況にならないよう、不利益を被らないようポジション取りをするしかなくなるのだが、そういう心理の結果として「勝ち馬に乗る」という選択を取る。

この手の議論は二分法になりがちだが、その二分法で出てくるキーワードを整理すると、こうなる。

陽キャ ⇔ 陰キャ
勝ち組 ⇔ 負け組
強者 ⇔ 弱者
多数派 ⇔ 少数派
 支配者 ⇔ 被支配者
加害者 ⇔ 被害者

最近の政治に関する議論や社会問題を見ていると、左側に並んだ属性を得る、もしくは左側の属性の集団に入ることが身を守ることと直結する、世の人々がそう信じているように思えてならない。

更に付け加えると

陽キャ = 勝ち組 = 強者 = 多数派 = 支配者 = 加害者

かつ

陰キャ = 負け組 = 弱者 = 少数派 = 被支配者 = 被害者

と、各側の属性が同じ意味を持つ。しかしながら、これらの区分は空気感によって変わってしまうことには注意したい。

例を挙げよう。

安倍内閣時代の「桜を見る会」を巡る疑惑に関して、小川榮太郎氏はこう投稿した。

多数決で多い方が勝者だ、勝者が正しいのだから、負けた少数者は文句言うな!というトーンである。

違う角度から、この"多数者の専制"のような現象の研究もある。人類学者の木村忠正氏曰くこうだ。

生活保護受給者や在日コリアン、LGBTに加え、日本に様々な要求をする中国・韓国・北朝鮮のような、弱者を騙るずるい人間や国に、勤勉で正直な自分らマジョリティは利益を奪われているという被害妄想が拡大している。

抽象的に言えば、政治が自称マイノリティに特権を与えすぎ、マジョリティが享受すべき利益が喰われた、と。

一方で、ジョナサン・ハイトの道徳心理学やロビン・ダンバーの進化心理学の知見を踏まえると、ゲノム的基盤を持つ道徳感情に従う潜在的多数派は、仲間を大切にするがゆえにフリーライダーや仲間以外の人間をたたき出したがる。これを自然感情と呼ぶ。

そして、ジョナサン・ハイトの道徳基盤理論によると「感情の押しボタン」は6つある。

  1. 弱者への配慮

  2. 公平への配慮

  3. 自由の尊重

  4. 聖性への帰依

  5. 権威への忠誠

  6. 伝統の尊重

人口学的に比較すると、リベラルな人々は4.~6.のへの反応が平均より極端に小さい。仲間の尊重という集団価値に反応しない普遍主義的リベラルはもともと例外的で、特殊な条件がないと多数派にならない。

この特殊な条件が、第二次世界大戦後に一時期だけ g(生産の利益) > r(投資の利益) という資本主義の例外的な状況だった。それに加えて第二次世界大戦への反省という空気があって、「みんなで分けよう」というリベラルな政策が広がり、政策だけではなく言論の主流がリベラルなものになった。その結果、自然感情が抑圧されるという状況が生まれた。

一方で現在は、第二次世界大戦後の特殊な2条件がなくなったことから、リベラルが主流という状況が崩れていくことになる。これがリベラルへのバックラッシュや右傾化の背景にある。

特殊な条件が与えた「リベラルな状態」から、よりありそうな「自然状態」に戻った、とも言える。「リベラルな状態」が長く続くと思い込んだ点に知識人の間違いがある、とも言えるだろう。

この状況を木村忠正氏は「非マイノリティ・ポリティクス」と呼んだ。

この議論を宮台真司氏は、こう評価する。

誌の議論はフランクフルター(批判理論)と接続がいい。中流が分解し、昭和みたいな経済成長も立身出世もない。そういう人々が断念したのに加え、今のポジション処理落ちるのではないかとの不安と抑うつに苛まれる。フランクフルターが問題にした大戦間のワイマール期に似ます。エーリッヒ・フロムの分析によれば、貧乏人ではなく、没落中間層が全体主義に向かう。「こんなはずじゃなかった感」に苦しむからです。だから被害妄想を誇大妄想で埋めようとする。氏はフランクフルターに触れてはいませんが、誰もが引き出せる論点です。

宮台 真司, 苅部 直, 渡辺 靖 「民主主義は不可能なのか?: コモンセンスが崩壊した世界で」
(読書人、2019年)

修学旅行中止を嘆く中高生や、コロナ自粛を快く思わない若者は、エーリッヒ・フロムの言う「こんなはずじゃなかった感」に苦しんでいる。

そして"社会"が消滅する

しかしながら「こんなはずじゃなかった感」に苦しむ本邦の若者は、全体主義を志向せず白饅頭氏の言う「マイクロ共同体主義」という社会を否定する方向を向いている。

批評家の藤崎剛人氏は、社会の問題を自己責任として受け止める、自助努力による解決=「ライフハック」はもはや倫理、といった作法の存在を指摘する(ライフハック、やりがい搾取、個人主義…“NewsPicks系”な人々の「不自由な思考」 藤崎剛人|文藝春秋digital)。

そしてこのような思想について、ひろゆきを引き合いに出し、こうも指摘する。

政治的・社会的連帯の軽視あるいは忌避にみられるひろゆきの思想は、徹底した個人主義であり、(哲学的意味としての)利己主義であるということができる。人生に意味などない。ならば可能な限り苦痛を避けて楽しく生きたほうがよい、とひろゆきは主張している。この素朴な快楽主義は、まさにその素朴さゆえに、若い世代を引き込むことができるのだ。

《論破王を「論破」する》ひろゆき本はなぜ売れるのか?「バカ」を出し抜く“危ない思想”
https://bunshun.jp/articles/-/49245

一方でひろゆきはトランプ現象などポピュリズムへの警鐘を鳴らす。しかしポピュリズムに対抗する政治運動の方法を具体的に提示することはない。あくまで彼が提示するのは、政治から距離を置くという消極的なアプローチなのだ。
 ここで指摘しておかなければならないのは、ひろゆき自身は、政府の様々な会議に呼ばれたり、自らデジタル庁の公募に応募したりしていることだ。政治に期待しないということと、政治案件に関わり続けていることは、どのように繋がるのか。少なくとも、ひろゆきは、自分自身の利益や楽しみのために、政治と関わることについては否定していない。理念を実現させる手段としての政治を否定し、政治を純粋な技術あるいは純粋な機能とみなすならば、自分は政治的イデオロギーから自由であるという自己認識のもとに、政治的なものを忌避しながら都合の良いときは政治を利用していくという立ち振る舞いが可能性となるのだ。

《論破王を「論破」する》ひろゆき本はなぜ売れるのか?「バカ」を出し抜く“危ない思想” https://bunshun.jp/articles/-/49245

前節の議論に立ち返れば、個人主義化は自然感情の発露である。

人類学的には「人を殺してはいけない」というルールが共有されているのではなく、「仲間を殺すな」「仲間のために人を殺せ」という血讐原理の下で、「仲間」の範囲が同心円的に拡大していっただけである。

この例から分かる通り、人類にとっては「仲間」が本質的に重要で「社会」というのは二次的に生まれたもの、と考えると議論の都合が良い。

上で引用した小川榮太郎氏の投稿は、「お仲間によるお仲間によるお仲間のための政治」という見方の発露でしかない。

そして日本に限った話をするのであれば、柳田国男が「日本には"世間"はあるが"社会"はない」と指摘していたり、宗教社会学的な風土として「日本人には共同体従属規範はあっても共同体維持規範がない」という指摘が出たりする。

また、宮台真司氏はルールという概念が脱人称化されていない、と指摘する。

山本七平という人が、一神教の機能について非常に整理された議論をしています。先ほどの話でいくと、人が見ているとか神が見ているというのを、基本的に二重に持つことが重要なのです。そして、一神教の文化は、例えば「正しい、間違っている」「許せる、許せない」というようなことで、人が思うことと、神が思うことは違う。こういう文化があるところでは、ルールという概念は人が思うことというよりも、より抽象的な原理になりやすい。そして、日本の場合はそうではなくて、そういう二重性がないので、人が思うことと法がほぼ表裏一体なのです。その意味で言うと、世間が法、法が世間、ということで表裏一体。神保さんや僕のような人間は、基本的に抽象性の高い法に従うので、「別に追い越し禁止、はみ出し禁止のところを渡っているわけではないので、ギリギリのところで入っていいではないか」と思う。これは文化というより性格の問題かもしれませんが、日本ではそういう性格を持つ人というのが非常に少ないのです。そう育てられているからでしょう。

誰が何に対してそんなに怒っているのだろう 
ゲスト:岩波明氏
https://www.videonews.com/marugeki-talk/786
の発言より

そして人間は世間の奴隷になる…というのが日本"社会"なのだ。世間にしがみついていないと不利益を被ると信じ、そうならないために勝ち組、多数派、強者、権力者に付くことが文字通りの死活問題になる。

しかし、そのような流れについていけず、落ちこぼれていく人間も出てくるかもしれないが、そういう弱者や負け組を自己責任と言って斬り捨てる冷酷な側面も日本社会にある。

これでは"社会"が縮小均衡に陥るのは避けられないだろうが、このような状況を仲間と乗り切る、というのが「マイクロ共同体主義」という戦略だ、十言える。

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