この白饅頭氏のnote記事は至極当然のことを指摘したまでではあるのだが、その当たり前が実践できない理由を考察してみた。
親が壊れているパターン:条件付き承認
ヤングケアラーが典型かもしれないが、子供というのは親を喜ばすように家庭内環境に適応してしまう。いわゆる条件付き承認という現象だ。
非モテをカネで偽装、粉飾するクズ男
まずは宮台真司氏のこの発言を読んでいただきたい。
非モテと幸福度の低さは相関している。しかし幸福度が低くてもモテる方法はある。カネで女を釣れ!という戦略である。
これが性愛が無理ゲーになった原因の一つではなかろうか。
そして結婚はカネとセックスの取引の一つの形でしかなくなった。そのことを指摘する拙稿がこちら。
そう思ったからこそ、以下の爆弾をnoteに放ったのであった。
俺が、この娘を付き合っているのは、この娘が可愛いから、でも可愛い女の子はごまんといる…という形で社会的流動性の高まりが、人間関係の弁証可能性を破壊したが、今や人間関係は貴重品であり、人生のリスクでしかない。
だから"ムラ"にしがみつくし、価値観を持って判断すると生きていけなくなるので、己の目先の損得を考えて行動するようになる。
こういう損得勘定で生きる人間を宮台真司氏はクズと呼んでいるわけだが、金の力を魅力の力と勘違いさせて女を彼女扱いする"パパ"にしろ、被害感情からくる女の"マンコ二毛作"問題にしろ、このクズ問題の問題系である。
「政治的にただしい」条件から"とうふ族"の生存戦略へ
「政治的にただしくない」ことは言えない。なぜなら「人間関係を破壊する問題については話せない」からだ。そして「政治的にただしく」なければ居場所すら奪われる。
これがポリコレの過激化がムラ社会と同じ状況を形作る理由である。
恐らく"とうふ族"は、損得勘定を至上の価値として生きるクズがひしめく現代社会の中で、最後の抵抗を続けているのであろう。
一方で、現実を生き延びるには自らクズ化して現状に適応するしかない。その現実の一つの顕れが「結婚は愛よりカネ」というトレンドだろう。