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2021/09/17 白饅頭日誌:白饅頭日誌:9月17日「子どもたちが負わされた時限爆弾」 への長文コメント

※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。

確かにこんな状況だと格差が開くよね、というのは同意するのだが、更に言ってしまうと、この話題に関しては自分の手元に2通りの"風呂敷"の広げ方があるので、それぞれ突っ込んでみたい。

①"親ガチャ"に始まる中間層崩壊もしくは中流崩壊問題のバリエーション

まずは"親ガチャ"の話から始めてみる。

👆の記事に私が付けたコメントがこれだ。

一昔前にも「正しい子宮から生まれないと…」というパワーワードがありました。
1990年代中頃にアメリカで盛り上がった"ベル曲線"論争の21世紀版の、本当にヤバイ部分が明らかになってきたとも言うべきですかね。
本当の問題は、親ガチャでハズレを引いても、何らかの形で社会や中間集団に包摂されることが保証されていたがゆえに保たれていた社会の構造が崩壊したことだろうと思います。
それこそヤクザの存在理由に直結する話です。
不適性検査にしろ、組織適合性が無い人間を弾く組織にしろ、包摂されるにも条件が厳しくなって、はみ出し者を量産しつつ、行き場も置き場も用意せずに放置するようになれば、それこそ外部から反撃を受けてしまう。
それを以前から「社会の必要経費」だと白饅頭日誌は言ってきたのですが、そろそろ今の社会システムのsustainablityが怪しくなってきている状況下で同じ議論は無理でしょう。
ジョック・ヤングという学者の言う、過剰な包摂は剥奪感をもたらすという問題の一つの現れです。

そして2日後。

こういうコメントを付けた。

9/14の親ガチャの記事と合わせて読むと、おぼろげながら一つの枠が見えてきて、それが「自分は頑張った」意識vs「あいつは頑張ってないのに良い椅子に座ってる」という相対的剥奪感の対立構造です。
悪い点で目立つ女の思考回路を見ていると、働きたくない(これは消費者主権の時代の裏返しなわけですが)という本音を偽装したり、逆に自分はこれだけ頑張っているんだから的な買いかぶり(旦那の収入は自分のモノ、自分の収入は自分のモノというジャイアニズム)をしたりしているわけで、要は「愛よりカネ」です。
それをデータで裏付けたのがダグラス・有沢の法則だったわけであり、近年はスペック重視だのメリット・デメリット重視の損得野郎(宮台真司の言うところのクズ)ばかりなのが現実。
そして自分はこんだけ頑張ったのだから、それでも貧乏になりたくない(没落したくない)としがみつく先を探す傾向が強まる。政治的にはファシズム・ネトウヨ現象と相似です。
先月、記事にしたばかりでした↓

元々中間層なり中流階級というラベルで誰もが平等なようで、実は出自による(良い意味で問題にならない)違い(別名"多様性")や格差が存在していたのだが、皆が中間層なり中流階級という集合に包摂されていて、昔はそのことが分からなかったのではなかろうか。

この状況を指摘して"過剰包摂"と呼んだのが、ジョック・ヤングという社会学者だった。宮台真司が上手いたとえで説明しているので、引用しよう。

「少なくとも日本において、ネットがその傾向を加速させましたが、原因そのものではない。別の要因が重要です。英国の社会学者ジョック・ヤングは現代社会の特徴を『過剰包摂社会』と呼んでいます。僕は『疑似包摂社会』と訳した方がいいと思いますが、格差や貧困があってもそれを個人が感じないですむ社会のことです」

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1098

宮台: そう。たとえば、日本はかなり早い段階から教育格差があるでしょう? でも、そのことを、多くの人は自分が不利益を被っているのに、認めたがらないんですよ。初期状態の格差によって「将来の社会的地位はせいぜいここまでしかいけない」ってことが決まってしまうんだけど、そのことを認めるのってつらいじゃないですか。だから、「見たくない現実を見ない」わけよ。それを、ジョック・ヤング[イギリスの社会学者]って人が「過剰包摂」──「疑似包摂」のほうが正しい翻訳だけれど──って言っています。
 たとえば、スターバックスに行くでしょ? すると年収1~2億円のIT長者も、年収200~300万のフリーターも、見掛けでは区別がつきません。でも、昔は違ったんですよね。地方出身者には、田舎臭い雰囲気や、言葉に訛りがあったりしてね。ホワイトカラーかブルーカラーかっていうのも、見た目ですぐに分かっちゃいました。日焼けしているかどうか、髪がさらさらかどうか、みたいなことでね。でも、今は、どの先進国でもそれが判らないですよね。だからこそ、「自分はみんなと同じだ」っていうふうに思いたいヘタレは、そう思えるわけです。だから弱者が連帯できないんです。簡単でしょ?

ところが社会が変化して、というよりグローバル化が進んだために、フォーディズム体制が終焉して、いわゆる「焼き畑」経済の時代になると、とりあえず目先の利益のために労働分配率を下げ、一国が疲弊したら資本ごと国外に出て新たな市場に行ってしまう、ということが起きるようになる。

その結果として、労働者が職にあぶれるようになり…というのが単純化した説明だ。

同じ東大生でも、の類の話は少なくとも1970年代からあったわけで、高井戸のテニスコートに行くと、どこかのお嬢様だという女性はどこに行くにも常にタクシーを使っていただの、駒場の教養課程のフランス語のあるクラスは美男美女ばかりだっただの、そういう話は枚挙に暇がない。

余談になるが、自分がこういう話を聞くソースは、東大卒の叔父・叔母・実母あたりである。全員が大学教授だった(定年退職しているから過去形)。

昔から構造は変わっていないのに、何が変わったんだというよりは、見て見ぬふりをしていたのか、外部からは見えにくくなっていたのが、「底が抜けた」結果だった。

仮定による格差はあったのだろうけれども、それが不可視化されていたり、影響が緩和されるような社会的な仕掛けがあって包摂されていたのが、何もケアされずに放り出されるようになった、と言うべきか。

それが中間層の没落もしくは中流崩壊と呼ばれる現象の一つの側面だろう。

②自分で勉強できる人間とそうでない人間との格差

これは大学入学後や社会に出てからの格差に反映されてしまうくらいシビアかつ大きな問題なのだ。

家庭環境の格差、特に学習環境の差がダイレクトに出る、と言うが、学習塾を経営する同窓生曰く。

子ども部屋を与えているかよりも、子どもの自習に親が付き合えているかどうかの方が大きく、食堂の食卓で勉強させて親が相手できている子の方が成績が良い

一見すると世間の常識に反しているのかもしれないが、学習塾という現場を知る人間からすると、上の指摘の通りなのだろう。確かに動機付けであったりコミュニケーションの観点からすると、誰かが相手をしていることは有意義だ。

そのことを世間が思い知ったのは、オンライン授業開始に伴うゴタゴタである。ZoomやTeamsのweb会議に繋がらないだの、表示されないだの、他のトラブルは必ず発生するのだが、ITスキルや環境の格差が学習環境の格差に如実に表れてしまう。

それどころか固定インターネット回線を引いていない家庭もあって、そこでも格差が露骨になる。

そういう形式的な問題に加えて、ある程度の初速度が付けば、あとは自力で進められるかどうかでも、学習効果・効率が変わってきてしまう。

これが、ここで言いたい「自分で勉強できる人間かどうか」という圧倒的な格差である。

自分も自分の親の頃も東京大学の推薦入試というものは無かったのだが、推薦入試が始まった途端に、どういう学生が合格しているのかという話を聞いて、自分も両親も口を揃えて

一度方向を決めたら自力で深堀して極めるタイプ、大学に入ったら自力で勉強する人間を入れさせたいんだろう

と思ったくらいである。私の両親に関しては、流石は(元)大学教員らしい読みと思った次第だ。残念ながら実社会でも、与えられるのは方向だけ、ということはザラだ。方向を決めるのはまた別の能力が必要だが。

結局のところは、授業を聞いて内容を理解するだけではダメで、そこから風呂敷を広げられる人間になれるかどうかが、家庭環境で決まってきてしまうというのが問題だったのである。

その意味では大学の推薦入試を考えると、単に課外活動の実績を作るだけではダメなのも理解できる。大学としては入学後に自分で勉強する人間を入学させたいのが本音だ。しかし世間はそれを知らない!

不幸なことに自分は、そこまで落ち着いて物事を深堀する余裕が得られるようになったのは、大学院修了後に就職してからであったので、とりあえず職にあぶれなかっただけでも良し、と思うしかない人間なのだが。

おまけ

同じ東大卒でも格差はありますよ、って話。

実は、叔母と母親、どちらも東大の理系学部卒業&博士号持ちなんだけど、片方が中高とお茶の水女子大付属、もう片方が地方の県立トップ高校の卒業生。これだけでも相当の格の違いがあるな、と子や甥の立場から見ても感じることがある。

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