無責任な政治と「専業主婦前提の社会システム」

新型コロナウイルス流行対策としての休校措置への論評として、こんな記事を見かけた。

この記事の2ページ目にこんな記述がある。

安倍首相は、国民、あるいは女性を何でも言えば従う自分の「駒」のように思ってはいないだろうか

もっと言ってしまえば、これは安倍首相とその取り巻きの人間観の問題である。さらに言ってしまえば、社会構造の変化に鈍感すぎる。

これを裏付けるような話がある。

「少子高齢化」から「無子高齢化」へ:専業主婦依存の呪縛から逃れられない日本
https://www.nippon.com/ja/currents/d00452/#.XqEF6nRSuvt.twitter

重要部を引用しよう。

延長保育や病児保育などが徐々に広がり、保育園に子どもを預ければなんとかフルタイムの仕事を続けられるようになったのは、2000年代に入ってからである。なぜ、90年代まで保育園の整備が進んでいなかったのだろうか。
その背景には日本が性別分業・片働き型社会で成長を遂げてきた成功体験がある。エンゼルプランのわずか15年前の1979年、自民党から「日本型福祉社会」という研究叢書(そうしょ)が出されている。そこには専業主婦が介護や育児を担うことにより、日本の税や社会保障費用を低く抑えられているということや、「ポストの数ほど保育園を作れば国が破産する」とまで書かれている。
そのたった10年後の1989年の出生率は、「ひのえうま」の迷信によって出生率が極端に低かった1966年(1.58)を下回る1.57まで落ち込み、「1.57ショック」と騒がれた。だが、かつての成功体験に縛られ、片働き社会の価値観を引きずったままの日本では、働き方改革は進まなかった。出生率の低下はそれ以降も続き、2005年には史上最低の1.26を記録した。その後は若干回復傾向にあるが、出生数減少にブレーキをかけるには至っていない。30年たっても少子化対策はいつも小出しで、抜本的な対策は講じられないままである。

専業主婦のお陰で社会保障コストを抑制できる、という成功体験、これが日本の雇用から社会保障に至るまで、あらゆるところに副作用が出ているのは明らかだ。

さて、昨今の新型コロナウイルス感染拡大を抑制するべく出されている「自粛要請」、行政が責任を取りたくないので「要請」なのだろう。

薄々見えてくるのは、責任もコストも持ちたくない政治、という姿である。社会保障は専業主婦にアウトソース、「自粛要請」という形を取るのも経済的損失を補償したくないからだ。

これが今回のコロナ禍で浮き彫りになった、日本の醜い姿の側面である。

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