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【メモ】今どきの"現実"と2つの崩壊

注意

茶化しとか揶揄の意図はありませんが、文体が失礼なのであらかじめお詫び申し上げます。

大きなお姉さんになってからプリキュアに"変身"した人

このツイートが流れてきたときに、大塚英志の「物語消費」を連想した人は自分以外にどのくらいいるのだろうと思った。

あまりにもメタで、色々と世の中を理解した上でのナイスコメントとしか言いようがない。

まぁ、現実とはそのようなものだ。
そして、このような光景は今や日常の一部となりつつある。

"真実の瞬間"はいつ来るのだろうか

これは実に微笑ましい光景だ。
イベント主催や運営側の人間からしたら、これ以上ない褒美のようなエピソードですらある。

しかし、こちらのお嬢さんは、いずれ"真実"を知ることになるのだろうか。

見田宗介が生きていたら

この慧眼、「現実」と対をなすもので時代を区分した見田宗介が生きていたら、どう考えたのだろう…
弟子の大沢真幸は「2022年で『不可能性の時代』は終わった」と最近主張し始めたが。

下のツイ主が「世界の再魔術化」を意識しているかは不明だが、時代の空気としては確実にある。

…と揶揄するような失礼なツッコミ的なことを書いておいてなんだが…

こういう「現実⇔"現実以外"」の行き来を楽しむのは、自分も同じなところがあって、そうでなければクリエーターページの自己紹介欄に「趣味は投資とキッズアニメのコスプレ」とは書けない。

とは言え、現実とその"現実以外"の境界、もしくは世界とその"外部"という二分法自体がオワコンを迎えつつあるという予感は比較的古くからあった。

ある意味、「現実」と対をなすものの社会的文脈から時代の変化を見出し、区分した見田宗介の議論を思い起こす。

宮台真司は現実を評価する参照枠組みの時代ごとの変化を「サブカルチャー神話解体」や、その後の著書で議論していた。

「ここではないどこか」探しが挫折した1970年代後半を経て、「ここという現実を読み替える」時代が始まる。これを宮台真司は「〈自己〉の時代」と呼んだ。

この「〈自己〉の時代」が始まった後、現実を読み替えて虚構として消費するのか、虚構を何らかの形で現実に持ち込むのか、という二項対立図式が1990年代中頃までは有効であった。

この「現実」への見方と、「現実」のと対をなすものに着目した議論の枠組みは、果たして現在も有効なのだろうか?

これが「二分法自体がオワコン」という私の仮説の出発点だ。

現実が記号として消費される時代と現実と虚構の二分法の崩壊

記号の向こうに"現実"がある、記号が"現実"を代表する、記号が"現実"の代わりをする、そういうあり方がもはや成り立たなくなって、"現実"が記号として消費される、と指摘したのは宮台真司だった。

ソシュール言語学で言うところの、シニフィエ(意味)とシニフィアン(表象)の区別で考えるとわかりやすいかもしれない。

例えば先に引用した着ぐるみと子供の小噺。

子供からすれば、あのキャラクターは確かに実在する存在として認識されている一方で親からは違ったものに見えている。

着ぐるみを見たときの解釈と受容の違いとして書くなら、ここまでならベタな解釈としてありがちなところだ。

思うに子供は着ぐるみという現実を通じてキャラクターという記号を認識し、受容しているのではないか。

アニメの映像で見る動きや姿、もしくは印刷物などの別媒体での表現の奥に、単一の存在を見出しているのではないか。

ソシュール言語学は、世界や事物の秩序というのは、その対象を表現する言語が作り出すものであって、対象自体を写し取っているという考え方を否定する。

ここで言う"対象自体"にキャラクターを代入すれば、着ぐるみもシールに描かれた姿も、その対象を写し取ったものでしかない、という考えに至る。

一つの光源としてのキャラクターという記号が、様々な媒体に投射されることで、ぬいぐるみやテレビ画面の中で動く姿として、我々の目の前に"姿"を現す。

この考え方を商業ベースに当てはめれば、大塚英志が角川書店的メディアミックスの特徴として指摘した「小説もマグカップも横並びで商品として扱われる」という構造になる。

この指摘は1980年代されたものだが、この時代というのはキャラクター(版権)ビジネスが立ち上がり、日本製アニメーションの回外への売り込みが活発化した時代である。

この時代は、見田宗介の言う「虚構の時代」であり、宮台真司の言う「〈自己〉の時代(前期)」である。

そして1990年代中頃から次の時代に入る。

宮台なら「〈自己〉の時代(後期)」、大澤真幸は「不可能性の時代」と名付けた時代だ。

自己の恒常性を維持するために虚構を利用し、現実を評価する物差しが虚構ではなく不可能性となる、という変化。

阪神大震災やオウム真理教が起こした一連の事件、その後の日本社会を震撼させた数々の出来事は、「現実は小説よりも奇なり」を地で行くものであった。

ここに現実と虚構の二分法は崩壊したのである。

もう一つの崩壊

「コギャル」前後で女性表象が変わったという指摘があるが、この切り替わり自体が「虚構の時代」の終わり、もしくは「不可能性の時代」への切り替わりと同時期なのだ。

上の拙稿や過去の論考で指摘したのは、「憧れの対象」から「友達として欲しい子」へのヒロイン像の転換だ。

付け加えるとすれば「魔法少女」が廃れ、「変身ヒロイン」へと女児アニメの主軸が移っていったことだ。

テクノロジーの発達が生活や社会を変えたのは論を俟たないが、そのことが表現・表象に与えた影響の一つではなかろうか。

「こんなのがあったらいいな」「こんなことができたらいいな」という願望が、時代が下るにつれて変化してきた中で、かつては「魔法」とされたことも今では実用化され日常的に使われていることは多い。

このような「現実」に対して「魔法」が入り込む余地はないのである。

いわば社会の進歩が「魔法使い」という表象を崩壊させた。

それは単なる一つの表象がオワコン化したというだけではなく、「世界」の外の未規定性を人々は忘れてしまった、という大きな変化を象徴しているのではなかろうか。

「ここではないどこか」という観念も消えてしまったのだ。

そして不可能性の時代の終わり、もしくは新しい「〈自己〉の時代」

「現実」と「虚構」の認知的な重みが等価となったのが1996年以降の「〈自己〉の時代(後期)」である、と宮台真司は主張するが、この時代というのは単に重みが投下となっただけではなく、「現実」と「虚構」の区別がつかなくなったり、意図的に「現実」と「虚構」の間の壁を壊すということが行われるようになった時代でもある。

しかし「セカイ系」の歴史を振り返ってみれば、「〈自己〉の時代(後期)」「不可能性の時代」の始まりとともに勃興したのにもかかわらず、これらの時代精神と矛盾しているような気がしなくもない。

精神の恒常性維持のための参照枠組みが「ありえないもの」という意味での不可能性を参照しながら、一方で「自己の謎」と「世界の謎」を等置しているのは矛盾していないだろうか。

そして現実の出来事が作り話と区別がつきにくくなってきた、という1995年以来の潮流の一つの臨界点が日本では2011年に起きる。

東日本大震災の発生と、偶然にも同時期に放送されていた「魔法少女まどか☆マギカ」の両方だ。

世の理(ことわり)の変化を優れた表現者は先取りする、その表現がピッタリ当てはまる。

それは2011年に迎えた「終わりの始まり」の一つだ。

更に新型コロナウイルスによるパンデミックで幕を開けた2020年代は、現実が作り話に似てくる、寄せてくるという感性の時代となりそうだ。

このような世界の中で、自己の恒常性を維持するために必要なものは何だろうか。「現実」を評価するための参照先や物差しはどうなるのだろうか。

もはや「魔法」のような「世界の外」はなく、あくまでも「世界」という名のシステムの中で、自己とは「世界」の再帰的な生成物でしかない。

そのような「現実」しか存在しない「辛い」時代を、我々はどのようにして生きていくのだろうか。

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