今回は前回の、被害者の無責任な権力の議論を受けて、責任回避的な被害妄想の問題から始めてみたい。
力による支配へのカウンターとその反作用
この構図が一番わかりやすいのは"男と女のラブゲーム"なのは皮肉だ。
なお、この小山晃弘(狂)氏が引用したバービー女史のコラムでは、責任を負いたくない女をこう批判している。
責任回避的な姿勢をバービー女史は批判している。一方で小山晃弘(狂)氏の言う「言質を取られることで責任を負いたくないし、合意を曖昧にして有利な権力関係を維持したい」という姿勢は、結局のところ性的暴行どころか("望んだ性交"の後の) "望まぬ妊娠"という問題を引き起こす。
責任を回避するということはコントロールを失うことなのだ。問題の責任を相手に移すということをしていると、相手からも距離を取られるかモノ扱いされるのが関の山だ。
男だってずっとリスクも責任も取っていられるほどリソースはない。昨今言われる"性的退却"の一つの原因が、責任から逃げる女と面倒を避ける男という構図にあるように思える。
2020年も性的暴行事件で、被害者と加害者の間に示談が成立したというニュースを見て、こうツイートした。2つ目のツイートで言う「当たり屋」とは、先にOKしておいて後から騒ぐ"被害者"を指している。
当然、こういうことを言われるのではあるが、"エッチで稼ぐ"="売春"ではないぞ。
しかしまぁ、世の中見回すと結果的にはセックスで男は金を払って女は金をもらうことになっているよなぁ、夫婦間の子づくりでも、と思えてしまう。もちろん、そんな見方は狂っている自覚はある。
このような状況は海の向こうでも同じらしい。
#MeToo運動の副作用としての"男女の隔離"であり、"ガラスの天井"の強化だ。最初に騒いだ人間は、このような副作用をゆめゆめ思ってもいなかっただろう。
被害者であることは武器
いわゆるVictimhood Cultureである。例えば、被害者であることを武器にする「#MeTоо」の風潮である。
この被害者意識という問題、アメリカでは歴史的なものがあって、アメリカ人の深層意識に刷り込まれている。
その理由はアメリカ合衆国建国の経緯にある。英国国教会の虐待から逃れた清教徒たちが建国したのがアメリカ合衆国、という歴史があるからだ。
従って外国の脅威に対する被害者意識というものがあるし、結束が必要な時は被害者意識や危機意識を政治家が持ち出すというお家芸がある。
これが露骨に表れたのが、2001年の同時多発テロから2003年のイラク戦争開戦までのアメリカ合衆国の振る舞いである。
そして高野孟氏によるこういう指摘もある。要約するとこうだ。
これでトランプ前大統領が"China virus"を連呼した理由もお分かりだろう。とにかく外部帰属化しないと落ち着けないのだ。
判断をする、責任を負う、というのは自責となるので、外部帰属化できない。だったら被害者ポジションを取って喚き散らせ!という戦略を取るのが、功利主義の観点では正しい。
そしてこれが政治手法として持ち込まれると、弱者利権、弱者特権の問題として表面化したり、不安で大衆を動員したりするようになる。
このような動きへの反発、カウンターの一例が"在特会"現象なのだろう。日本国内の韓国・朝鮮系の全員が強制連行で日本にやってきたわけではない一方で、"強制連行"図式に乗るのが得だという理由で、それに乗っかかって"甘い汁を吸っていた"構図への反発である。
もちろん、個人的にはこの"当事者性"問題は批判する立場だが、「在日は出ていけ」は単なるアイデンティティ・ポリティクスもしくはカテゴリー差別主義でしかないと批判しておく。
弱者とは"幼稚で不安に弱い人間"
一見すると反道徳的かもしれないが、弱者というポジションの特権性が大手を振ってまかり通る現代社会の護身術である。
弱者権力とはこういうことが起きる。
ここにも不安というファクターが絡む。
不安の埋め合わせという動機からくる攻撃性。
重要なのは弱さからの攻撃性の見極めだ。
その攻撃性はどこから来るのだろうか?
それはある種の幼稚さからきているのではないか、と個人的には考えている。
これが猖獗を極めた結果がvictimhood cultureだったのではないか。
しかしいつまでこの状況が続くのだろうか?
幼稚で不安に弱い人間が増殖した結果が現状だろう。