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自由からの逃走2.0#4:被害妄想という不安からポピュリズムへ

今回は前回の、被害者の無責任な権力の議論を受けて、責任回避的な被害妄想の問題から始めてみたい。

力による支配へのカウンターとその反作用

この構図が一番わかりやすいのは"男と女のラブゲーム"なのは皮肉だ。

しかし言うまでもないことだが、女性にとって明示的に性交同意を取られることほど不快なことはない。曖昧さこそが権力の源泉であり、さらに言質を取られてしまえば言質に従う責任が生じるからだ。そしてもちろん女にとって最大の苦痛は「責任」を負わされることである。

「性交同意」を拒み続ける女たち|小山晃弘(狂) @akihiro_koyama #note https://note.com/wakari_te/n/nc6570cad6679

明示的に性交同意を取ろうとする「誠実」で「正しい」あり方は、ほとんどの女性にとってストレスでしかない。
言質を取られることで責任を負いたくないし、合意を曖昧にして有利な権力関係を維持したい。なにより女性の性的興奮は男性の暴力性に根差しており、果断にリスク・テイクできない男なぞひ弱すぎて「負の性欲」が発動してしまうのだ。

「性交同意」を拒み続ける女たち|小山晃弘(狂) @akihiro_koyama #note https://note.com/wakari_te/n/nc6570cad6679

性的魅力資本の優位性に胡坐をかいて、性交同意のような重要な同意を曖昧にし続ける女たち。そんな彼女たちの小狡さが生むのは何も非モテ男子の涙だけではない。

「性交同意」を拒み続ける女たち|小山晃弘(狂) @akihiro_koyama #note https://note.com/wakari_te/n/nc6570cad6679

なお、この小山晃弘(狂)氏が引用したバービー女史のコラムでは、責任を負いたくない女をこう批判している。

こうしたやり取りは、男性側も直球で言われると引くという性質があるため、仕方なくやっている場合もある。どちらにせよ、女性は「YES」とも「NO」とも取れない曖昧な返事をするのが良しとされていた。セックスにおいて経験豊富な人は、いかに同意をシレっとスムーズに取る、または取らせるスキルがあるかないかなのだ。
ここまでが、かつてのセックスライフ。しかし、同意というのは「双方の意志」があって成立するものだ。
こうなったら、女性は今までと違って、自分の性欲やセックスに対して向き合わなければならない。意思決定を男性に任せているだけでは何も進まない。つまり、私たち女性も「YES」と「NO」をはっきり言う訓練をしなくてはならない。「恥ずかしいこと聞かないで、わかるでしょう」じゃ済まない。

フォーリンラブ♡バービーが考える「性的同意」には契約書が必要か @frau_tw https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72850

じゃあ私は、「したい意思」をどうやって確認したいんだろう? そこで、思い立った。「性的同意」とは、「YES」を確認するよりも、「NO」の意思を確認して尊重すれば、「萎える問題」は解決するのではないか。
「NO」の意思を明確に伝えても強引に行われる性行為は暴力だろうが、だからこそ私たちは、大切な人に対して「NO」を伝える技術も高めなくてはならない。「あなたを傷つけるつもりはなくて、好きだけど今日はしたくないの。ごめんね」

フォーリンラブ♡バービーが考える「性的同意」には契約書が必要か @frau_tw https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72850

自己理解を深め、自分と向き合うことが、結果的に相手も守る。「YES」や「NO」を言うというのは、自分の意思を伝えることだ。意思を伝えるのは難しい。意思決定をいつも人任せにしていると、いざというとき自分の意思がわからない。動けない。
性的同意が市民権を得ても、グレーゾーンや隙間を狙った卑怯な人は必ず現れる。無理矢理「YES」を引き出して、後から何も言えなくなる手口を使う人も出てくるかもしれない。
セックスにありつきたいという欲望が、人間の能力を最大限に引き出す場合がある。例えば「ホテルと自宅とどっちがいい?」という技だ。これは「NO」という選択肢を隠して、自らの意志でセックスに臨んだという洗脳と、後からの証拠になる。裁判なんかで誘導尋問に使われるテクニックだ。だからこそ、「NO」がとても重要になってくる。

フォーリンラブ♡バービーが考える「性的同意」には契約書が必要か @frau_tw https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72850

つまり、「意思を持たなければセックスをするな!」ということだ。二択でさえ、口に出して言うことを恥ずかしがる人がいる。今、自分がどちらなのかを言語化できない人も。だけど、ちょっとだけ勇気を出して、ふたりの間にしか流れない空気感も言語化したり、行動に示したりして伝えることから始めてみてはどうだろうか

フォーリンラブ♡バービーが考える「性的同意」には契約書が必要か @frau_tw https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72850

責任回避的な姿勢をバービー女史は批判している。一方で小山晃弘(狂)氏の言う「言質を取られることで責任を負いたくないし、合意を曖昧にして有利な権力関係を維持したい」という姿勢は、結局のところ性的暴行どころか("望んだ性交"の後の) "望まぬ妊娠"という問題を引き起こす。

責任を回避するということはコントロールを失うことなのだ。問題の責任を相手に移すということをしていると、相手からも距離を取られるかモノ扱いされるのが関の山だ。

男だってずっとリスクも責任も取っていられるほどリソースはない。昨今言われる"性的退却"の一つの原因が、責任から逃げる女と面倒を避ける男という構図にあるように思える。

2020年も性的暴行事件で、被害者と加害者の間に示談が成立したというニュースを見て、こうツイートした。2つ目のツイートで言う「当たり屋」とは、先にOKしておいて後から騒ぐ"被害者"を指している。

当然、こういうことを言われるのではあるが、"エッチで稼ぐ"="売春"ではないぞ。

しかしまぁ、世の中見回すと結果的にはセックスで男は金を払って女は金をもらうことになっているよなぁ、夫婦間の子づくりでも、と思えてしまう。もちろん、そんな見方は狂っている自覚はある。

このような状況は海の向こうでも同じらしい。

#MeToo運動の副作用としての"男女の隔離"であり、"ガラスの天井"の強化だ。最初に騒いだ人間は、このような副作用をゆめゆめ思ってもいなかっただろう。

被害者であることは武器

いわゆるVictimhood Cultureである。例えば、被害者であることを武器にする「#MeTоо」の風潮である。

彼女はフェミニズムの在り方や、ミレニアル世代と20代が中心の「#MeTоо」運動に対して自らが抱く距離感についても書いている。かつてフェミニズムは学術理論だったが、今では同性愛者や女性、人種的少数派などの「被害者の序列」の中に足場を置いていると残念そうにつづる。

被害者であることを武器にする「#MeTоо」は不快 「若い世代よ、しっかりして」 ニーナ・バーリー
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/12/post-277.php

この被害者意識という問題、アメリカでは歴史的なものがあって、アメリカ人の深層意識に刷り込まれている。

その理由はアメリカ合衆国建国の経緯にある。英国国教会の虐待から逃れた清教徒たちが建国したのがアメリカ合衆国、という歴史があるからだ。

従って外国の脅威に対する被害者意識というものがあるし、結束が必要な時は被害者意識や危機意識を政治家が持ち出すというお家芸がある。

これが露骨に表れたのが、2001年の同時多発テロから2003年のイラク戦争開戦までのアメリカ合衆国の振る舞いである。

そして高野孟氏によるこういう指摘もある。要約するとこうだ。

現在のアメリカは、銃の魔力がついに米国社会そのものを侵食して「話し合うよりも撃ち殺したほうが早い」という病的心理が蔓延していて、不安を銃暴力によってしか拭えないと皆が思い込んでいく社会の病理、それに対して別の解決策を明示できない政治の失敗がある。今起きようとしているのは、その社会の暴力的な病理が政治の失敗を乗り越えて行こうとする趨勢ではないか。

トランプ“再敗北”ならクーデター必至か。米国の民主主義を殺す「4億丁の銃」
https://www.mag2.com/p/news/525804
より筆者要約

これでトランプ前大統領が"China virus"を連呼した理由もお分かりだろう。とにかく外部帰属化しないと落ち着けないのだ。

判断をする、責任を負う、というのは自責となるので、外部帰属化できない。だったら被害者ポジションを取って喚き散らせ!という戦略を取るのが、功利主義の観点では正しい。

そしてこれが政治手法として持ち込まれると、弱者利権、弱者特権の問題として表面化したり、不安で大衆を動員したりするようになる。

このような動きへの反発、カウンターの一例が"在特会"現象なのだろう。日本国内の韓国・朝鮮系の全員が強制連行で日本にやってきたわけではない一方で、"強制連行"図式に乗るのが得だという理由で、それに乗っかかって"甘い汁を吸っていた"構図への反発である。

■一般人が「当事者性」に惑わされないよう、弱者権益と左翼利権の関係について指摘しておきましょう。どんな例でもいいので適当に挙げます。本来周知であるべきですが、在日の方々のうち強制連行された人々(の子孫)は一部で、大半は戦後一旗挙げに日本に来た人々です。だから韓国本国では在日はいわば「パンパン扱い」で差別されます。
■ところが、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』にも指摘があるように、日本の左翼が自分たちの弱者性を大衆的にイメージメイクする必要から、強制連行を触れ回ります。在日と言えば全員が強制連行されたようなイメージが、日本の左翼によって植え付けられました。私も若い頃はそのように信じていました。もちろん真っ赤な嘘です。
■ところで、在日の方々は嘘と知りつつ「左翼の主張に乗った」のです。なぜか。弱者権益を得られるからです。これはこれで合理的選択です。問題は日本の左翼です。アイデンティティポリティクスを含む政治戦略として在日強制連行図式を触れ回るのはあり得るでしょうが、それが戦略であるのを多くの左翼が忘れ、図式を本気で信じてしまった。

全体性の消失──IT化に最も脆弱な日本社会──【後半】
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=369

もちろん、個人的にはこの"当事者性"問題は批判する立場だが、「在日は出ていけ」は単なるアイデンティティ・ポリティクスもしくはカテゴリー差別主義でしかないと批判しておく。

弱者とは"幼稚で不安に弱い人間"

一見すると反道徳的かもしれないが、弱者というポジションの特権性が大手を振ってまかり通る現代社会の護身術である。

弱者権力とはこういうことが起きる。

ここにも不安というファクターが絡む。

不安の埋め合わせという動機からくる攻撃性。

重要なのは弱さからの攻撃性の見極めだ。

その攻撃性はどこから来るのだろうか?

それはある種の幼稚さからきているのではないか、と個人的には考えている。

これが猖獗を極めた結果がvictimhood cultureだったのではないか。

しかしいつまでこの状況が続くのだろうか?

幼稚で不安に弱い人間が増殖した結果が現状だろう。

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