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過剰包摂と中間層崩壊の側面#5:総選挙で示された民意の本音=弱者は人間ではない!

日本人であれば大多数が中間層・中流階級として包摂されてきたが、バブル崩壊で経済的余力が失われていく過程で、"叩き出し"のゲームが始まった。そういう状況下で転落という形で"叩き出される"恐怖からくる埋め合わせの行動と、一方で積極的に"叩き出そう"とする動きの両方があるのではないか。

前回に引き続き、寄り道を続けたい。というのも、先般の総選挙から見えてきたのは、相変わらず過剰包摂的な日本の有権者のマインドだったからだ。

野党共闘のダメさ加減は公約で分かる

立憲民主党の公約を見て、「だめだこりゃ」感を感じたのは自分だけではないだろう。やるべき優先順位がおかしい。

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流石に自分も頭にきたので、小選挙区&比例区の両方に自民党で入れてやった。

建前の「正しさ」への反発を表明するツイートの一部を紹介しよう。

インテリ層の考える重要問題と、それ以外の層が考える重要問題がズレてきている。謂わば知的な"勝ち組"と"負け組"の分断の現れである。

そして知的な"負け組"層の方が絶対数が多いのだから、一部の"勝ち組"への反発から逆張りの選択・行動を取る。野党側の選挙参謀は、そういうことすら分からなかったらしい。

そういう中で、反・自民層は"維新の会"に票を入れたというのは、行動として理解できる。

新型コロナウィルス・パンデミック対策のこれからを考えると、科学的・医学的にやれることはほぼ出尽くしていて、影響を最小化するための社会政策・経済対策を議論するフェーズに入ったとも言える。

弱者を敵視するのは「弱者は人間ではない」から

2021年のDaiGo動画で炎上した件は世間的に忘れ去られているかもしれないが、ここに一つの論点がある。

人権感覚とは何か?という話になると、教科書的には「人間皆平等」のようなスローガンが出てきやすい。しかし現実には↓のような認識ではなかろうか?

今や人権は人情の言い換えでしかない。なので「ホームレスよりも自分の飼い猫が大事」なのだ。

付き合う相手も「自分に利益をもたらしてくれるか」「自分の"市場価値"を高めてくれるか」で選別する。それが人間の価値であるかのごとく、である。自分の損得にこだわる宮台真司氏が言うところの"クズ"の典型だ。

(2021-11-06 追加)

上の話が頭に入っていると、下のツイートにある「放蕩左翼」には見返りのために「やってあげる系」の人間が多いような気がしてくる。単に己の主観の「良かれ」から「やってあげている」感を得ているだけという、迷惑な連中である。

こういう連中には「公共心」はないのだろう。むしろ利己的な動機から社会運動、政治運動に走る。

(2021-11-06 追加終わり)

さて、他人への目線が自分の損得ベースになってしまうと、ある種の現象が起きる。それが弱者への敵視という現象だ。

この太田女史は総選挙の結果をこう分析する。

3つ目のツイートで引用されているポイントが重要だ。

弱者の見方してる人を「カッコつけてんじゃねーよ」って嘲笑する

これは先般指摘した野党がイタい&KYな理由そのものだ。そして弱者という自覚のある人間は自衛的に弱者に見られないように下駄を履こうとする。例えばこんな具合だ。

女同士は厳しいという話は、このnoteでも繰り返してきたが、そういう構造がパパ活の背景にある。実家が太い女の子の生活が基準となるので、足下を見せないようパパ活で足りない分を稼ぐという構造。謂わば"見栄張り合戦"の構図だ。なので、脱落者には厳しい。

これと同じことが社会全体で起きているのではなかろうか?中流とかこれこれ、という基準線が引かれ、子どもへの教育期待水準が大卒以上、となると、そこのラインから落ちたら"弱者"のレッテルを貼られ、そして社会からも排除されていく。

この弱者レッテル貼りを政治的に利用してきたという告発本がイギリスで出ている。

そして同様の現象はアメリカでも見られる。

これが日本の左派が政治的に弱い原因である。

そして差別や優生思想は地下に潜る

表向きには差別や分断がない振りをしているが、現実には弱者すら分断して差別しているという本音がある。

 いま「望まない他者」を自分のもとから遠ざけることによって「自由で安全で平和で快適な社会」を享受している者――つまり私たち全員――は、自分が排除や疎外に加担しているという加害者としての側面を打ち消し、ある種の「後ろめたさ」や「罪悪感」を帳消しにしてくれる方便として「小さなノーサンキュー」を都合よく駆使している。
 人びとはみな、能力の高い人を優遇し、低い人を冷遇する。知的能力・学力の高さで序列化することを当然視する。性的魅力の高い人のパートナーシップ形成を肯定するし、あわよくば精子だけでも分けてもらおうとさえするが、そうでない人がパートナーを求めようとすることを「雑魚オスの劣等遺伝子をあてがうな、それは人権侵害であり加害行為だ」と排除する。育ちがよくて品行方正な人が隣人になってほしいが、怪しげな精神障害者が集まる施設は自分の近所につくってほしくないので「子どもたちの安心安全のために」と反対を表明する。薄汚いホームレスの集まる物騒な公園ではなくて、すべての人にひらかれた商業施設にするのが望ましい。ホームレスが寝床を作りそうな場所には、行き交う人びとの目を楽しませるアーティスティックなオブジェを設置して景観を「美化」する――こうした社会的・人間関係的な「淘汰」あるいは「浄化」とされるものは、表現方法が違うだけでやっていることはメンタリストの主張そのものだ。
 しかしこれらには「優生思想」や「差別主義」といったラベルを貼られることはほとんどない。それどころか「個人の自由」「個人の権利」の名の下に美化され、正当化されている。
 ほかでもない私たちが、私たち自身の「快適な暮らし」のためにそうしている。私たちは自分たちの快適性のために「疎外者」を生み出している。頭の悪い人、能力の低い人、魅力に劣る人、カネを持ってない人、精神的に安定していない人、コミュ力の低い人、キモい人――そうした人びとの居場所をどんどん奪うことによって「ただしくて、自由で、快適で、安全で、平和で、めんどうな他人に煩わされない社会」を実現している。
 私たちが行使してきた差別や疎外から目を逸らし、「疎外の論理をあえて口に出した者」「疎外に耐えきれずに加害行為に転じた者」が可視化されたときにだけ、「正義」を堂々と語りながら徹底的に糾弾するその姿に、私はもううんざりしている。
 自分自身がこうした疎外や排除や差別の加担者であることから目を逸らしながら「うっかり口を滑らせた『差別主義者』」を全員でつるし上げて叩き潰して快哉を叫び「よかった、私たちの社会はまだまだ捨てたもんじゃない、正常なんだ!」などと相互確認しようとする営みに、私は心から嫌気が差している。
 「こんな言動は許されない!! 狂っている!! 私たちの社会とは相容れるものではない!!」などと言い切って憚らない人びとの姿に虚しさを感じている。いい加減に、自分のことを1ミリでもいいから省みたらどうなのかと。

差別を禁止したところで、地下に潜るだけだ。そして一見尤もらしそうな姿を纏って帰ってきた。それが社会浄化・環境浄化である。

一定の条件を満たす人間しか居ないで欲しい、そういう欲望である。そして、この考え方は「限られた範囲での平等主義」という本質を持つリベラリズムと相性が良い。

 象徴的なのは、リベラルが唱える「平等主義」が、一定の境界線内での「我々の平等」に過ぎないこと。コスモポリタンにまで枠を拡げても、所詮は「人間の平等」に過ぎない。ちなみにハーバーマスが言うように、今後は「人間よりも人間らしいAIや改造哺乳類」が出て来るよ。多くの人は「ウヨ豚みたく劣化した人間」よりも「人間より人間らしい改造イルカやスーパーAI」を仲間にしたいはずだ。つまり、今はもう「人間の平等」じゃ済まないんだよ。
 いずれにせよ、「リベラリズム」も「多様性主義」も、「境界線の外に対する無関心」と両立する。トランプが大統領になった時「かつて民主党員だったのに排外主義を唱えるのはなぜ?」と言われた。でも民主党を支持しながら排外主義者であるのは全く自然なんだ。実際、イギリスでは、排外主義的なブレグジットに労働党支持者の3分の1が賛成したでしょ?

そして「限られた範囲での平等主義」は、パイが増えない、もしくは縮みゆく中で、己の既得権を守るための武器でもある。

若い世代は上述の事情を肌感覚で知っているのだろう。だからこそ自己保身化が進むのである。

人権とは誰の人権だ 言ってみろ

そして、この地下に潜った差別意識や優生思想の行き先は、「人間」の定義のハックである。だからこそ「人権とは誰の人権だ 言ってみろ」という問いかけは本質的な問いかけなのだ。

自分は実は"負け組"であるのにもかかわらず、"勝ち組"しか人間と見做さないし、どうにかして"勝ち組"に入りたい…そういう心根の人間が増えてきたのではないだろうか?

そして弱い自分を他人に見せないようにしているし、それゆえに弱者同士で連帯できない。特に日本人は一億層中流意識と他人の目線を気にし過ぎるため、この傾向が強化されやすい。

それこそが過剰包摂というものだ。

弱者は強者の養分

本当は弱者のはずが、弱者ということを公にしただけで叩く。そして本来は手取り足取りまでしなくて良い存在を、己の社会的・道徳的ステータスをアゲるために助けて「あげる」。

そう、これはイジメの構図そのものだ。誰かをイジメることでしか連帯できない。

以前、パパ活は格差社会のあだ花であり、格差が存在するのにもかかわらず見栄を張らないと生き残れないがゆえに、経済的に"下"の方の女子大生はパパ活に走る、と指摘した。

そんな弱者であるパパ活女子大生に対して、"良かれ"で近づいて利用していくパパ達…ここでも弱者は利用され(搾取され)、強者に捨てられる。

いずれ弱者は見捨てられる運命なのだ。そして一度弱者となってしまえば、もはや人権は無い。言い換えると、弱者は強者が己の勝ちを高めるための手段として存在する。そして利用価値が無くなれば捨てられて人間と見做されない存在になる。弱者は強者の養分でしかない。

これが現代の、人間が人間を疎外・排除していくメカニズムである。

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