2021/10/20 白饅頭日誌:10月20日「叛逆者たちの詩」への長文コメント

※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。

「ただしさ」なんて政治的なヘゲモニー争いの勝者が決めるもの

上の白饅頭氏のnoteで「正気」について述べている個所の引用から始めてみる。

世界中の人類社会が(とくにお互いが示し合わせたわけでもないのに、ありとあらゆる場所で同時発生的に)20世紀までのんびりと営んできた「ふつう(凡庸なあり方)」を、そこからわずか数十年後の2020年代に説くことが、もはや社会から逸脱した「叛逆者の言辞」になってしまうような今日の世界こそが、人類史上まれにみないほどの勢いで常軌を逸脱してしまっているだけだ。
狩猟採集社会から現代社会まで、人類社会の共同体の存続を担保してきた根本的なシステムを「旧弊な因襲」として否定し解体することを是とするような「正気」が持続可能性を持っているわけがない。そのような「正気」は正常ではない。集団発狂である。

少し前に同氏は「『障害』は人間社会がつくる」と指摘した。これはラカン派の精神医学のロジックだ。

その文脈で考えると、この現代の「正気」とやらは、どういうものが次の"資本"なのかという点と関連している。

そして"普通"の定義も、基準も時代とともに変わる。

ヒトがヒトである必要が無い現代

白饅頭氏が「ふつう」として挙げた項目、これらは人間が人間たる所以・根拠となる要因である。

・共同体に所属しているという意識を持とうね
・利己的にふるまうだけでなく集団との調和を目指そうね
・社会的責任ある人間として誠実に仕事をやろうね
・恋愛して結婚して子どもつくって、人並みに幸せな家族を持とうね
・他人との相違点ばかりではなくて、他人と共通する部分を探そうね

しかし現代社会はヒトがヒトである必要がない。

技術は、ヒトから、ヒトである必要を免除します。人間的なパーソンである必要も、人間的な社会である必要も、なくなります。

この問題意識があったので、少し前にこう指摘した。

近代合理主義に則って合理化という名のシステム化、人によっては「社会の汎システム化」という事態が進行していけばいくほど、人間にマトモさを要求しない代わりに、仕組みで行動をコントロールする社会になっていく。
「自我の確立」という近代のお題目が不要

この構造は経済学で言う「負の外部性」図式そのものではないか、そう指摘できる。「資本主義は、資本主義によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を資本主義の作動が壊す」図式だ。

これを敷衍すれば「〇〇〇〇は、〇〇〇〇によっては作り出せない前提に依存するが、その前提を〇〇〇〇の作動が壊す」であり、資本主義だけではなく、民主主義もリベラリズムも代入して同じことが言えてしまう。

白饅頭氏が

 個人主義は、文字どおり個人の利益最大化を優先するあまり「ある思想そのものの世代間継承と中長期的存続のためには、個人の利益を多少は犠牲にしなければならない」という性質をも跳ね除けてしまうパラドックスを内包していた。いうなれば個人主義は、自分の貪欲を満たすために、将来のための種籾をすら食ってしまったのである。

と指摘したのは、まさにこの点そのものである。

ただ私は将来の見通しとしては悲観的だ。テクノロジーの進歩が人間が人間である必要を免除するし、その方が楽で便利で快適だからだ。

そういう「お気持ち」に抗える人間はどのくらいの割合でいるのだろうか?


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