神田沙也加の転落死に思うこと
同郷人としてはお悔やみを申し上げることしかできない。
写真は、自分の実家から徒歩で行ける駅でもあり、恐らくは神田沙也加の育った家の最寄り駅だったであろう、小田急線・成城学園前駅の看板である。
余談だが、成城は丘の上の街、自分は丘の下の土地育ちなのだが、丘の上と下で違い過ぎる。公示地価を見ると3倍近く地価が違う。自分は丘の下の地価の安い方で育った。
そういう地元disのような小噺はさておき、この出来事は「また一つの時代の終わり」を象徴している気がしてならない。
それは神田沙也加の両親の離婚が一つの象徴だったからだ。
神田正輝・松田聖子離婚は女性のロールモデルの崩壊
巷間聞くところによると、松田聖子はアメリカ進出を計画していたらしい。その結果、松田聖子はアクティブに活動していたがゆえに、常に男性スキャンダルがついて回ったそうだ。
「そうだ。」と書くのは、自分が世代でなかったからである。
そういう中で、神田正輝・松田聖子夫妻は、仮面夫婦の代名詞扱いだったこともあるほど取り繕った関係が続いていたらしいが、1997年1月にようやく離婚となった。
このニュースが世に出た頃、自分は当時通っていた中学校の団体訓練に参加しており、とあるスキー場近くのホテルに宿泊していた。ホテルのロビーにあるスポーツ新聞の一面記事が、この離婚のニュースだったのを覚えている。
さて、この離婚がどういう意味を持っていたか?
それは、仕事も家庭(育児)も欲張って頑張ってきた女性の象徴としての松田聖子が、家庭を終わらせたという、一つのメルクマールとして社会が受け止めたからだ。
芸能人としての仕事をこなしつつ、娘の沙也加を育てる、そういう「良き母親」像というか、成功者としての「松田聖子」という偶像の終焉である。
確かに一人娘の沙也加を引き取ったのは父である神田正輝であったことも、その印象を強くする。
そして平成不況が深刻化していく時代の変わり目でもあった。
1997年と言えばアジア通貨危機があり、戦後2回目の経済のマイナス成長を記録した年だ。
この頃を境に、日本社会はこれまでとは違う空気に覆われるようになる。
母・松田聖子という反面教師?
他人は「鴨の水かき」と言うかもしれないが、娘である沙也加を実質的に面倒を見ていたのは聖子の母親だった。表向きのイメージ(当時からそうだったのかは知らないけど)とは真逆の実態があった。
一方で「母親」イメージを押し出す、利用したくなるという松田聖子の心理は分からなくもない。
共働き夫婦の子であり「おばあちゃん子」だった自分の体験からして、子どもの顔を見る時間が短いのにもかかわらず、生物学的には母親であるという事実で、心理的に上書きしたいという感覚、それを自分も母親に感じずにはいられなかった。
松田聖子と神田沙也加の間には母子の確執がある、と芸能ニュースを漁ると出てくるので、恐らくは神田沙也加も母親である松田聖子を良くは思っていなかったのではないだろうか。
そして出てくるエピソードは、母親としての松田聖子が「支配型毒親」であることをうかがわせることばかりである。
子どもを作りたくないのではなく母親になりたくない?
最初は親の七光りと言われながらも、舞台女優として両親とはいささか違う道、領域で活躍の場を自ら見出した神田沙也加。
芸能人ならではの男性遍歴の噂もさておき、俳優の村田充と結婚するも後に離婚。離婚原因は村田充は子供を欲しがっていたが、神田沙也加は子供を作りたくなかったらしい、という。
神田沙也加は離婚理由の中で「生きてきた環境の中で持った考えを変えられず」と語ったそうだが、これも母・松田聖子の影を感じずにはいられない。
母親のようになりたくないと思っていたのではないだろうか?
改めて神田沙也加の転落死に思うこと
神田正輝・松田聖子夫妻の離婚から一世代分、25年近くが過ぎた。
神田沙也加の転落死が自殺だったのか、それとも事件性があるのかは分からない。
しかし、舞台女優としての地位が確立していく中で、実家という心理的な負の遺産が神田沙也加を苦しめるのは変わらなかったのだろう。
ゴシップ記事をググって見えてくるのは、一人娘という存在の孤独や、母親のダメさ加減が家庭や子の人生を破壊させること、そして子は親の因果から不可避であること等々…
社会的に見れば、神田正輝・松田聖子離婚は「女性のロールモデルの崩壊」を象徴したが、神田沙也加の転落死は「女性の社会的成功の代償」を象徴しているのかもしれない。
それは、夢を叶えるどころか、夢を見ること自体の終わりを象徴しているのかもしれない。
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