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「背水の陣」は横道に活路があることを教えてはくれない

背水の陣という言葉があります。

ある人は、その言葉を美徳とし、追い込まれることで人は成長できると勘違いしています。

そして、その方法で「成長できた」と実感した人は、自分を追い込んで潰れていった人や、失敗していった人が多数いるという現実を忘れ、それこそが最良の方法だと疑わず、後続の人を同じように「追い込んで」育てようとします。

しかし、背水の陣は、横道に新しい「活路」があることを教えてはくれません。僕はこの言葉を初めて知った時から違和感を覚えていました。背中が水辺でも、横は水辺じゃないんじゃないかと。もしかしたら森かもしれないし、現状を打開できる道があるかもしれない。

元の故事を調べてみると、「史記」淮陰侯伝の、漢の名将韓信が趙の軍と戦ったときに、あえて川を背にして陣をとり、味方に退却できないという決死の覚悟をさせて敵を破ったということらしいですね。

そこから転じて、「絶体絶命の状況の中で全力を尽くすこと」の喩えとして用いられるようになりました。

意味を調べて、違和感の正体がわかりました。つまり、故事の成り立ちからいっても、背水の陣というのは、トップからの命令であり、他者からの強制だったわけですよ。

自分から追い込まれたわけじゃないし、これで勝ったから良かったものの、負けたらただの馬鹿野郎だったわけです。どの時も、勝者の歴史は都合よく描かれますから、史実よりも脚色されていることもあるでしょう。「追い込まれたから勝った」というのは部分的なものであって、すべてにそれが当てはまるわけではないのです。

他者から追い込まれて、もしくは自分で自分を追い込んで心が病み、自殺までしてしまった方もいたりするというのに、未だに日本では「逃げ道をなくして勝て」という教育が多いように思います。

「現実から目を背けるな」という人がいます。その人たちは我々に「現実から目を背ける権利」があることを無視しています。

不都合な真実や埋もれた問題について、ある人は知るべきだといいます。しかし、知って心が病む人もいます。知っただけで何もしない人もいます。大切なことは「知ってから何をどう行動するか」であり「知ること」そのものではありません。

ショッキングな現実をありのままに見せることが、その人をポジティブに変えるものだとは限りません。そういう意味で笑いは可能性を持っています。笑いという糖衣に包み込むことで、現実の苦みを和らげてくれるからです。

僕はHSPの傾向があるので、必要以上に傷つきすぎないよう、余計なショッキングな情報は遮断しています。ライブのアンケートも読めません。相方からポジティブな情報だけ伝えてもらって、キツイ意見の時は時間をおいてから伝えてもらっています。

人はもっと逃げるべきだし、もっと色々な価値観に出会うべきです。ずっと同じ場所に留まる必要も、我慢する必要もありません。キツイなと思ったら、外の空気を吸いにいく心のゆとりを持つべきです。

追い込まれて「叩き上げ」で育った人は、その教えをそのまま人に伝えることを止めるべきです。そして、あらゆる成長の仕方を考え、人によってそのアプローチの方法を変える必要があります。良い成績を残した人が、良い人材を残した人とは限らないのです。

自分で自分を追い込みがちな人は、それでしか自身を成長させることはできない、という思い込みを捨てるべきです。その思い込みの呪いを解いて、自分のために目を背ける勇気、逃げる勇気を持ちましょう。

こういう呪いを自分にかけがちな人は、「頑張ることは苦しいことだ」という勘違いをしている人がとても多いです。楽しいことだったら永遠に続けられますよね?そっちのほうが成長できると思いません?苦しいことは成長を保証するものじゃないんですよ。

このような発想の転換を、追い込んで人を育てようとする側も、自分を追い込もうとする側も、それぞれで考えるべきだと僕は思います。

周りをちゃーんと見渡せば、
後ろは川だとしても、
横に抜け道だって、
別のルートだって、
すぐにみつかりますよ。

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