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物事をガチに捉えすぎない「プロレス力」を身につけよう

オシエルズの矢島です。

お笑いの現場は真実と虚構の境界線が曖昧な世界です。時にその境界を行き来し、ガチなのか冗談なのかのスレスレを楽しむ一面があります。

舞台で大きくリアクションしたり、キレてみたり、ケンカしてみたり、分かりやすく対立してみたり。もちろん本気じゃないけど、全部本気じゃないかと言われると違う。やっぱり少しガチだったりして、それを周りがいじったりする。

それはネタの中でも平場(フリートークや企画)でも起こっていて、ボケもガチも綯い交ぜになって、さらに膨らませて大げさに言ってみたりレッテルを貼ってみたり、キャラクターに仕立て上げたりするわけですよね。

いわば、芸人は舞台でずーっとプロレスしてるんですよね。どう表現すれば、舞台に立っている人間関係がわかりやすく、かつ面白く見えるかということを考えているんです。

プロレスでは、どんな大技も受け身が上手くないと美しく見えないし、命に関わる事故につながる可能性もあります。ガチな試合なのにショー的で、対立構造にも演出があったりする。ギャラリーはそこまで深く詮索せず、ガチとショーの狭間で揺れるギリギリを楽しんでいる。そこにドラマを感じ、100%現実を見る以上の「現実味」を味わっています。

よく考えれば、我々も自分自身を演じる瞬間があります。良くない現実や忘れたい出来事をかき消すように振る舞うこともあれば、自分の実力や身の丈に合わない見栄や虚勢を張ることだってあります。それは自分自身に存在する虚構ですが、現実がなければそれらは構築されません。

最近は心理学も発達してきて、この行動を取るタイプの人は○○だとか、こういう癖を持っている人は○○だとか、人間の行動や態度のウラから本心をカンタンに読み取れるようになりました。常日頃相手のそういうところばかり目について、妙に勘ぐってしまうことが職業病になってしまった営業のビジネスマンもいるとききます。

もはや正しい情報も嘘の情報も含めて、何が現実で何が虚構なんだか分からなくなっている世の中ですが、一つ言えることは、虚構もまた真実があって創り出されるものであり、だからこそ虚構の中に感じるリアルを見て心が揺さぶられてしまうのだと思います。

映画や小説を見た時、人はフィクションの世界なのに自分の生活に置き換えて追体験します。ていうか、それが正常なんです。フィクションはノンフィクションと比較するから理解できるのであって、我々は常にファンタジーを現実の相対化の中で楽しんでいるんです。

だけど、これが頭の中で理解できている人でも、自分の近すぎる現実になると途端に処理できなくなる。理不尽なことで怒られたり、相手から思いもよらぬ態度を取られたり、自分が自分で驚くほどのミスや失態を冒したりした時、急にプロレスができなくなる。

それは、自分にとってあまりにも現実すぎるために、フィクションが入り込む余地がないからなんだと思います。その「フィクションが入り込む余地」を広げることが、僕のいうプロレス力だと考えてください。

良いことも悪いことも現実を全て受け入れ、それにしたがう自分も、抗う自分も受け入れること。そして、それを他者にも適用することが大切です。相手から理不尽なことをされても、その人のガチをガチと受け止めすぎない。まとめると、すべての物事を物事のままで処理しないということです。

こういった考え方は、認知行動療法として応用されていますし、それをお笑いの世界では当たり前のように実践しているわけですね。ストレスなく生きていくためには、真実と虚構を立て分けすぎないぐらいがちょうどいいのかもしれません。

こんなことを言うと、お前は現実を蔑ろにするのか!とか、ジャーナリズムを否定するのか!というお叱りの言葉をいただきそうですが、僕から言わせれば、ジャーナリズムも取材者の主観が入る以上、そのフィルターを通した現実ですから、1ミリも虚構が入らないとは思っていません。

よく政府が不都合な真実を隠して報道している、なんていう記事を目にしますが、それは対立する側にも同じことが言えるし、やった、やってないという話ではなく「やってもおかしくない」と思っています。いや、やってるはずですよ、人間ですから。

僕も割とセンシティブな人間ですが、お笑いの世界でプロレスする癖が身についてから、生きるのが少し楽になったなぁと思います。皆様もぜひ日常の中で意識してみてはいかがでしょうか。

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