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基本ロースペックな人間の僕がハイスペックを目指すために考えた生き方と現在

オシエルズの矢島です。

僕は自分で自分のことを「ロースペック」な人間だと自覚しています。スペックとは工業製品では性能という意味で使われますが、人間に置き換えて、その人が持っている才能や能力として表現されることがありますよね。それです、そのスペックです。

スペックが高い人間をハイスペック、反対に低い人間をロースペックとするなら、僕は間違いなくロースペックな人間です。それだけでは説得力に乏しいので、もう少し説明すると、僕はハイスペックの定義をこんな風に考えています。

・天才的な発想や能力によって、大勢を魅了するパフォーマンスができる
・上記によって大勢の心を動かし、ビジネスとして確立させることができる
・大勢の競合他社(他者)と比べてずば抜けており、他の追随を許さない。別格である。

一方、ロースペックをどのように捉えているかというと、こんな感じです。

・発想力も豊か、能力もそこそこにあるが、大勢を魅了するほどのパフォーマンスではない
・大勢の心を動かすところまで研ぎ澄まされてなく、ビジネスとして確立させるには難しい
・大勢の競合他社(他者)と比べて優勢であっても目を見張るものではなく、別格とはいえない。

僕は手前味噌ながら、司会が上手いとか、作詞・作曲もできてすごいとか、ピアノが弾けて即興で歌えて多才だとか、よくあんな発想のコントや漫才が書けますねとか、大学でも講師されてるんですね!とか、全国色んな学校回ってて素晴らしい!とか、これまで活動の中で色々と褒められてきた人間です。

ただですね、そこまで褒められていながら、頭一つ抜けてない。周りから褒められた数=出世の可能性で言ったら、僕は億万長者になったっておかしくないんですよ、本当は。でも実際は違う。僕なんかより何倍も稼いで、とんでもない世界で活躍している人たちばっかりです。僕なんてまだ、家族を守れるか不安なほどのその日暮らしです。

多分ですけど、僕みたいに学生(小中高大)時代に割と優等生として育ってきた人たちって、その人自身も「あ、自分って人より色々とできるな」って気づいてるんですよ。実際、僕も要領が良かったんで、さほど勉強に困ったことがない。運動(体育)以外は何となくコツを掴むのが得意で、人より覚えるスピードも教え方も上手い。

「いやいや、そこまで言ったら立派なハイスペックでしょ」と思うかもしれませんが、先ほども言ったように、もしそうなら僕は今ごろとっくに売れてるし、高層マンションの最上階にジャグジー風呂付きの家だって買ってるはずなんです。

でもそうじゃない。なぜか、答えは簡単です。典型的な器用貧乏だから。何でも人に比べてそこそこできるけど頭一つ抜けない。ゆえに魅力的ではない。人からチヤホヤはされるけどその範囲はごく小規模であり、自分の生活を支えるほどではない。

そのくせ出来る人だから任される仕事は多い。謝礼の有無関係なく、幼少の頃から「他者に褒められる」という自己肯定感だけで生きてきたから、平気で安請け合いする。まぁ、それでいいだろと思っているから交渉もしない。

かといって、それ以上に能力の伸びしろがあるかといえばない。なぜなら努力をしないから。ある程度のことができれば人が褒めてくれる。頼む相手も「超プロ級」の仕事をしてほしいとは思っていないから技術の干渉もしてこない。お互いが70〜80点ぐらいの仕事で満足している。

いやいや、努力をしてないわけじゃないんです。僕もプロの芸人ですし、教育者としても様々研究は続けています。でもまだ頭一つ抜けない。もしかしたら数年後ブレイクしてるかもしれないけど、そんな未来の不確定なことは信用できない。30過ぎて現状が売れてないんだから、やっぱり器用貧乏なんです。

甲子園に例えると、優勝校とか全国大会の強豪校じゃなくて、自分のことを地区大会優勝校ぐらいに思っている。まだ上はいるんだけど、「まぁ地区大会優勝したからいっか」という気持ちになる人っていますよね。僕はそれです。上がいることをあんまり気にしてないし、絶対一番になったる!みたいな強いハングリー精神もない。

要領のいい優等生ってね、自分が人よりできることに早く気づきますけど、「あ、もうこれ以上行けないな」って気づくのも早いんですよ。だから諦めも早いんです。要領がいいだけで興味があるものじゃないから、トップが取れないんだったら別にいいやってなるんです。取れそうなら頑張りますけどね。

もしかしたら、優等生の器用貧乏であることに満足して、これぐらい褒められたらもういいかってなってるのかもしれません。御山の大将でも構わないか、って思っている自分がいる。こんな人は、何でもできるフリをした「何にもなれない人」なんです。

今までの説明を全部ひっくるめると、一般的なロースペックの考え方に加えて、僕は「臆病な器用貧乏」こそ一番タチが悪いロースペックだと考えています。何でもできるのに何にもなれない人。それが今の僕です。数年後は分かりませんが、今だけ切り取れば僕はロースペックなんです。

最初はこんな自分が嫌な時期もありました。努力ができないことも、この状況がさして危機的だと思っていないことも、根拠なく楽観主義でいること(これが一番優等生の発想でありがち)も、自分で自分を受け入れられなかったんですよね。

でもある時から考え方を変えました。器用貧乏で何が悪いんだと。努力することが美徳という発想はまやかしなんじゃないか?確かにあらゆることでコツを掴むのは早かったけど、全くのノー努力だったわけじゃない。すぐに「できた」という体験ができるから、その楽しさの中で練習やら学習ができたのであって、そのプロセスで「努力を努力と思わなかったんじゃないか?」と思うようになりました。

それから僕は、努力という言葉を使うことをやめました。好きなことはずっと続けられるから努力する必要がない。かたや第三者は客観的に見て、この人すごい頑張ってるなーと思う。だから努力していると感じる。つまり努力という言葉は、他者がそう見えて言ってるだけであって、自分自身がそう捉えてなくても「努力」として認定されるものなのだと。

もしかしたら僕の活動全体を見て、矢島さん頑張ってるなー、忙しそうだなー、努力してるなー、と思っている読者の方も1人ぐらいはいるかもしれません。僕自身は全く努力してるつもりはなくて、結果的に好きだから続けているってだけです。これこそ「臆病な器用貧乏」が生き残る方法の1つ目なんです。

また、自分を「地区大会優勝者」だと思っている優等生は、まさに「井の中の蛙大海を知らず」で社会に飛び出した時に「強豪校」に打ちのめされることが多く、それによってメンタルを強く傷つけられます。再起不能になることだってある。

僕自身も教員採用試験で落ちた時はそう思いました。今も華々しく活躍している同業者を見ると、気持ちがぐぐっと持っていかれます。

でも、社会で成功できるハイスペックな人なんて、5合炊きの炊飯器にスプーン突っ込んで、掬い上げられたご飯ぐらいなもんで、ハイスペックな人でさえ多くが夢破れてしまっています。

そんな中でロースペック野郎が生き残る方法は1つしかない。御山の大将だろうが何だろうが、生き残るための山を探して住むしかないんです。弱小だろうが大名になればいいんです。

1億人に知られなくたって、自分のことを10万人が知っていて、かつそのうちの1,000人がファンでいてくれれば、そこそこ安定した生活が送れるはずです。僕で言えば、お笑いで全国区にならなくても、教育現場でオシエルズが認知されれば、上記の目標はやすやすと達成できるはずなんです。

僕がやっていることは、井の中の蛙が大海を目指していくのとは真逆で、大海の生き物たちに井戸へ来てもらうことを目的としています。大海が「世界の中心」だと誰が決めたんだと。もしかしたら、僕の井戸が「世界の中心」なんじゃないかって気持ちでね。

今回はいつもより書きすぎてますが、本文をまとめると、僕はやっぱり気質がロースペックで、それでもこの社会を生き抜いていくために、

・元来努力することが苦手な人間だと知っているから「自分が好きなこと」だけを続ける。
・自分が御山の大将として振る舞える場所を探して、あわよくばその御山を世界の中心にしようと企てる

この2つに徹して活動しています。

誰にでも好かれて、誰にでも認知されたい!という気持ちはありません。ただ、僕の考えていること、そして「笑いで教育を変えたい!」という思いに賛同してくださり、応援してくださる方々を1,000人集めることが、現在の僕の目標です。

好きなことを続ける中で、自分が知らないうちに磨かれていけば、念願のハイスペックになれるかもしれませんしね。蛙だって大物に化けてやりますよ笑。

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