長い言い訳(記憶に関して)
2019/0410
一日の終わりに私はしんで、昨日までの記憶を引き継いだ私によく似た私が朝、目を覚ます。明日も私が用意されている。私は私が寝てるとき、何がおきているのか知ることは出来ない。だから、体と心はちぐはぐで、心はここよりももっと遠くにあるような。
というようなことを2013年8月に書いていた。これはあながち間違いではないな、と最近おもう。
夫の誕生日に、わたしは特上の肉を食べさせてやりたいと、近場のスーパーへと赴いた。近場のスーパーといっても、ファミリー世帯の多い某世田谷区の一帯は、スーパー激戦区である。いつもなら激安を売りにしている隣駅の大型スーパーまで自転車を走らせるのだが、この日、わたしはいつもなら行かない、流行を大いに取り入れた意識高めのスーパーへと向かった。(ヴィーガンの為のコーナーがあり、焼きたてピザ、スムージー、ジェラートの販売もあって、イートインで食事ができる!イートインでは電源も確保できるし、子供の為のアスレチックもある…)
この張り切りよう、結婚してから初めての夫の誕生日というのも大きかったが、わたしはこの日の一週間前、夫から2万円借りていた。3月に公演を終えたのだが、稽古期間中ろくにバイトも出来なかった私は案の定、お金がなかった。もちろん貯金なんてない。給料日までは三週間くらいある。誕生日プレゼントもクレカで買った。しかも後から3回払いに変更した。夫から2万円借りといて、誕生日のディナーが貧相なものでは夫が不憫で仕方ない。私という女を妻にしたばっかりに、可哀想な思いをする不幸な夫という存在をこの世界線で誕生させてはならない。そんな思いがあった。もちろん、自分の誕生日を存分に祝ってもらえないだけで幻滅するような人ではないし(へそ曲げるかもしれないけど)、私がやりたいことを心を尽くして応援してくれている夫に対して、とにかく、心ばかりのお礼をしたかった。
特上の肉に関して私は知識がないので、分厚く切ってあって、全体的になんだか白っぽい肉を沢山買った。芯リブ、トウガラシ、ザブトン。一体、牛のどの部分なのだろう?芯リブはまあまあ大きいけど、トウガラシとザブトンなんか厚みはあるけど私の握り拳よりも小さい。きっと、新鮮な肉の方が美味しいはずだが、消費期限が明日に迫った特上肉たちは三割引だった。大丈夫、焼いて、胃に入れば同じだから、大事なのは気持ちだから、と自分に言い聞かせる。その分、浮いたお金でカナッペをつくろうと思い、諸々買ったら、八千円になってしまった。
どうして?…人からお金を借りている身分で、何故、節度を持って買い物が出来ないのだろう?ただ単に算数が出来ない自分を末代まで呪うことにした。しかもまだケーキを、買っていなかった。ここで、レジで、これとこれとこれ、やっぱりやめます〜の一言を言えれば良かったのに。いつもと違う、意識高めのスーパーがわたしを見栄っ張りにした。もう、ケーキを買わないという選択肢しかないのか?でもそれは出来ない。愚鈍なわたしは前日に、夫にケーキは何味がいい?などと聞いていた。そういう時の返答は十中八九、チョコレートケーキだから、聞かなくてももう分かるのに、わたしは聞いてしまっていた。聞いた手前、買わない訳にはいかない。リクエストを聞いといてチョコレートケーキがなかった時の夫を想像したら胸が熱くなった。
「う〜ん。やっぱりチョコレートかな」答えは決まってるのに一応悩んで見せる夫のかわいい姿が脳裏に浮かぶ。わたしはアド街で紹介されていたケーキ屋でチョコレートケーキを買い、自分用のショートケーキも買った。残りの日々を一万円で過ごす覚悟はもう出来ていた。
夫は仕事が長引いて、帰ってきたころには日付が変わり誕生日が終わっていた。8時ごろには終わるはずだった仕事が、なんやかんやあって終わらなくて、夫は職場で「妻が僕の誕生日を祝うために家でずっと待っている」と涙をこぼしてしまったらしい。すごく恥ずかしかったと、話してくれた。わたしはいつまででも待つつもりだった。誕生日が終わってから、肉を焼き、ワインを少し飲んで、とても2人では食べきれない量のカナッペを少しずつ食べた。カナッペの適量がわからなくて、作りすぎてしまい、食べきれなかったザブトン、その他諸々は明日に持ち越した。
真空チルドなる機能が、うちの冷蔵庫にはある。どんな機能かも良く分からず、真空チルド出来る部屋もとても狭いので、ほぼ使っていない。でも生肉とか、保存しておくにはなんとなく良さげなので高い肉を入れる事にしている。ザブトンも漏れなくそこに入った。誕生日以降わたしたちは予定があったりで家でご飯を食べることがなかなか出来なかった。そうこうしているうちに、わたしはザブトンの存在を忘れてしまっていた。真空チルドだって万能じゃないので、肉はちゃんと腐っていた。それに気づいたのが今日。誕生日から一週間以上経ってる。あ!肉食べなきゃ!と思うタイミングは何度かあったのに、家に帰ってくるとことごとくそれを忘れた。
肉を真空チルドの部屋に入れて、腐らすのはこれが初めてじゃない。でも今日腐らせた肉に関しては結構思い入れのあるものだった。それにも関わらず、存在ごと忘れてしまっていた。記憶の引き継ぎにミスがあったとしか思えない。でも引き継ぎ忘れた私はもういない。
こんな時、記憶が持つ責任について考えてしまう。私足らしめるのはやはり自身が所有する記憶によるものが大きいと思う。私という役割が負わなければならない任務とは、その記憶を保有し、時に人に語ること。記憶のやりとりの中で、関係は強固なものになる。そうして、わたしがあなたの中に居つくことで、わたしはやっと安心する。今回犠牲になったのがザブトンで良かった。わたしは忘れてはいけない多くのことを、やっぱり忘れてしまうから、せめて少しでも、大切な他人を傷つけないように、なるべく話したり、書き留めておくことにしようと思う。なるべく。
長くなりましたが、最後に夫の短歌を紹介します。
何年も前に見捨てた秋刀魚から追いかけられる君の夢をみた
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