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Michael Breckerの名盤 (3) Smokin' in the Pit/Steps:評伝エピソードを交えて

私がジャズサックスに傾倒するきっかけとなったテナーサックス奏者、Michael Breckerの評伝「マイケルブレッカー伝 テナーの巨人の音楽と人生」が刊行されました。
というわけで、評伝のエピソードを挟みながら、私の好きな名盤、名演を紹介しようという企画です。今回はその3回目。当然ながら、評伝のネタバレもいくらかありますので、ファンの皆さんはまずは評伝を買って一読することをお勧めしますし、そこまでは、という人もこの記事で評伝に興味を持ってもらえると(そして買って読んでいただくと)幸いでございます。

今回の名盤:
Smokin' in the Pit/Steps

今回採り上げるのは、泣く子も黙る大名盤、当時のニューヨークファーストコールメンバーで結成されたグループ"Steps""Smokin in the Pit"です。スタジオ仕事に忙しいメンバーがニューヨークのクラブで自分たちのために、っていうか、半分遊びで始めたアコースティックセッションに目を付けた日本のプロデューサーが日本に呼んでライブをやらせ、いきなりライブ盤まで録音してしまったという。録音は1980年12月、リリースは1981年の2月だったそうで、当時にしては異常に素早いリリースだな。すでにそれなりのマイケルフリークになり掛けていた私は、ジャズ雑誌等でこのバンドの来日やアルバムのリリースを知り、発売間もなく入手して死ぬほど聴きました。回数という意味では生涯で一番聴いたアルバムかもしれない。
制作・発売は日本コロムビア(Better Days レーベル)で、要は、当時日本でしか入手できなかったのだが、その後いろいろあって、ずいぶん時間が経ってから海外でもリリースされた。おそらく海外のマイケルフリークにとっては永らく「幻の名盤」だったんじゃないかな。
わたくし的には"On the Move"でマイケルを発見し、ブレッカーブラザーズの"Heavy Metal Be-bop"を聴いて衝撃を受け、このアルバムでトドメを刺されて完全にマイケル推し決定という、まさに「人生を変えた一枚」だったかもしれない。ちなみに、このアルバム、サックスプレイヤーだけでなく、多くのドラマーの聖典となっていると思われます(Not Ethiopiaのスティーブガッド、奇跡のドラムソロ!)。今回は、このアルバムの前段としてのマイケルの70年代後半の状況、そしてこのバンドが生まれた伝説のジャズクラブセブンス・アヴェニュー・サウスの話を評伝からパクってみます。

家でオリジナルジャケットのアナログレコードを発見。やっぱりこの方がしっくりくるよね。

3.1 1970年代後半のマイケル:ドラッグ漬けの日々

評伝ではあちこちで何回も出てくるネタなのだが、マイケルブレッカーという人、自虐的と表現できるほど自己肯定感が異常に低い人だったらしい。前回書いた通り、70年代前半にニューヨークに移り、その後クラブギグやスタジオセッションで飛ぶ鳥を落とす勢いだったはずのマイケルだが、自分のやっていることに全く自信が持てない日々が続いて、その自虐ぶりは周りのミュージシャンのネタになるほどだったようだ。評伝の多数の証言のうち、ちょっとだけ紹介。

「信じられないぐらいだったよ。神経症的ともいえるくらいに自分自身や自分の能力を否定するんだ。」
デヴィッド・サンボーン
「ライブのたびにその謙虚さと自虐的な態度は明らかだった。ライブが終わって裏に戻ると『今夜の演奏は最悪だった』と言うんだ。」
マイク・マイニエリ
「(マイケルは)いつも自分の曲のどこか気に入らないところを見つけてしまうし、毎回曲を書いてくれと頼みこまないとだめだったよ。(中略)<ストラップハンギン>も好きじゃなかったな。(アドリブの後半の)<サニー>みたいなコード進行※のところが陳腐だと思ったからだ。(中略)いつも自分の曲の中になにかネガティブなものを見つけ出してしまうんだよ
ランディ・ブレッカー

マイケルブレッカー伝 より

(※:ストラップハンギンのあのコード進行(およびその上でのマイケルのアドリブ)、わたくし的には「ビバップ」を生まれて初めて体感した大好きなパートなので、ちょっとショック。まあ、確かに、後にビッグバンドと一緒にやったときか何かに、あそこのコード進行変えてたな。)

この性格、おそらくは、生まれつき繊細な完璧主義者であったところに、前々回も書いた「父親に対する承認欲求と、できる兄に対する劣等感」のような感情が重なって、結果、自分に対するハードルを上げまくっていたのかと思われる。もともとあまり社交的なタイプでもなかったようで、演奏し、練習すればするほどストレスやフラストレーションを溜め込んでいくような状況だったのかもしれない。それってミュージシャンあるあるだが、この人はちょっとレベルが違うような気もする。まあ、結果として、より上を求めて研鑽を重ね、あのテクニックと表現力を身に着けることになるわけだが。
そんなマイケル、70年代のニューヨークで、多くのジャズミュージシャンと同様、 ドラッグに手を出す。いや、手を出すとかいうレベルではなかったらしく、周りのミュージシャンたちもあきれるほどハマっていたらしい。しかも、単純にハイになることが目的ではなく、上記したようなストレスやフラストレーションを緩和し、どうにか生きていくためにやっている、というような悲惨な状況だったようだ。

「マイケルは注射の時もあったけれど、ヘロインとコカインを一緒に、いわゆるスピードボールを鼻から吸うのが好みでした。チャカ・カーンも時々一緒になったり。セブンス・アヴェニュー・サウスのすぐ向かいにあるジョニ・ミッチェルのロフトにみんなで行って、同じようなことをすることもありました。」
「いつもその(ヘロイン中毒)ことを話していました(中略)。ハイになるたびにやましく感じるけど、体調を悪くしないためにはやらなきゃいけない。そんな状態に思えました。罪悪感に苛まれ、恥じ、苦しんでいるようで、ハッピーなジャンキーではなかったのです。」
当時の恋人ジャッキーのコメント

マイケル・ブレッカー伝 より

他にも、当時のマイケルのヤク中っぷりを物語るエピソードがこれでもかと出てくるわけだが、その中で、当時ニューヨークデビューを果たしたベーシストのウィル・リーのちょっと面白い?コメントを紹介。

「ヘロインについて(マイケルは)"完璧な八分音符"という表現を使っていた。腕に注射する真似をしながら、自分に言い聞かせるように『完璧な八分音符を吹きたくてこれをやっているんだ』っていうんだよ。」
ベーシスト、ウィル・リー

マイケル・ブレッカー伝より

なるほど、やっぱりジャズは八分音符だよね、などと言いたくなるエピソードwではあるが、ユーモラスというよりはやっぱり悲壮な感じがしますな。

3.2 悪の巣窟、セブンス・アヴェニュー・サウス

さて、当時スタジオ仕事でそれなりに潤っていたブレッカー兄弟、1977年に自ら出資してニューヨークのダウンタウンで"セブンス・アヴェニュー・サウス(7th Avenue South)"というクラブ経営を始める。とはいえ、クラブ経営で大儲けしよう、というわけでもなく、やはりダウンタウンにあった気軽なクラブ「ブーマーズ」の閉店を受けて「(ブーマーズに代わる)みんなでたむろできる場所が欲しかった」から始めたということらしい。
二階が安いチャージでライブを観られるスペース、一階は、音だけ聞きながら気軽に呑めるバー、という緩いつくりで、目論見通り、というより、目論見以上にホットな業界人の溜まり場となり、ジャズミュージシャンはもとより、スタジオ系の連中、さらにサタデーナイトライブに出ていたジョンベルーシ一派などなどが客席にうろうろしているような状況だったらしい。この店でギタリストの渡辺香津美がブレッカーブラザーズとライブをしているときに、客席でマイルスが観てた、なんてエピソードもありますな(評伝に写真が載ってます)。
当時ニューヨークでは、この店のライセンスを取るために州の役人をコカインで買収したり、歯医者に行くと医者に普通にコカインを勧められたり、とドラッグが日常に存在したらしいのだが、そんな環境で、さらに業界人が集まっているのだから、演奏しているミュージシャンも客も普通になにかしらキメている、ドラッグの巣窟のような店だったとか。ちょっと引用。

「毎晩、夜中の1時半か2時に家を出て、セブンス・アヴェニュー・サウスに向かったものだ。夜遅くまでのライブやレコーディングを終えた連中が集まってきて、朝の4時、時には5時や6時まで飲んだり、ビデオゲームをしたり、とても楽しい時間だったよ。もちろん、そこでの絶対的な存在はドラッグだ。ほぼ全員がコカインをやっていた。
(ブレッカーブラザーズバンドのギタリスト)バリー・フィナティー

マイケル・ブレッカー伝より

ミュージシャンとして、同時に共同経営者としてこの店に頻繁に顔を出す環境で、マイケルの薬物依存は悪化していく。私もドラッグリテラシーは特にないのだが、この本によれば、大麻<コカイン<ヘロインの順番でヤバいらしい。コカインはどうにかなる(わけでもないかw)が、ヘロインに手を出すとそのコミュニティでも一目置かれるwというかヤバいと思われるようなのだが、マイケルは完全にヘロイン中毒となった(飄々とした兄ランディはそこまでではなかったとか)。その後、80年代に入るころには危機的状況に陥る。

3.3 Steps誕生

さて「みんなでたむろできる場所」を狙って始めたこのクラブ、狙い通り、好きに自分の音楽をやるためにブレッカー兄弟周辺のミュージシャンが出演していた。ブレッカーブラザーズバンドのレコ発的なものもここでやるし、あれやこれや実験的なバンドも多く企画されたらしい。

そんな中、1979年5月にヴァイブ奏者/プロデューサーのマイク・マイニエリが、マイケル・ブレッカー(ts)、ドン・グロルニック(p)、エディ・ゴメス(b)、スティーブ・ガッド(ds)というメンバーを集め、このクラブで二晩にわたってアコースティックなセッションを行う。このライブが口コミで評判を集め、同年10月、12月にもギグを行い、それを観ていた日本のコーディネータが日本コロムビアと日本招聘(ライブとレコーディング)の話を付けたのが、今回採り上げたSmokin' in the Pitの制作される経緯というわけで、セブンス・アヴェニュー・サウスのような気楽な実験が許されるハコがなかったら存在しなかったバンドともいえる。ちなみに、本来は「マイク・マイニエリグループ」のはずなのだが、たまたま、マイニエリがレコード会社とリーダー契約を結んだばかりでその名前が使えず、適当にStepsという名前を付けたということだ。
そんなこんなで、Stepsは1980年12月に来日し、全国のいくつかのホール及び六本木ピットインでライブを行い、スタジオ録音も残すことになる。六本木ピットインでのライブをライブ録音したものが今回採り上げた"Smokin' in the Pit"で、スタジオ録音が"Step by Step"ですな。これも落ち着いていていいアルバム。

思い起こすと、当時、マイケルブレッカーは頻繁に来日している。私が覚えている限り、この1980年12月のStepsの前になるが、1980年9月にAurex Jazz Festival出演のためランディと二人で、さらにSteps来日のあとには1981年5月にはブレッカーブラザーズバンドで、1981年7月にはチックコリアの"Three Quartets Band"でLive under the sky出演のため、それぞれ来日しているわけだが、ヘロイン中毒はどうやってやりすごしていたんだろうか?日本の入管検疫がユルユルでさっさと持ち込んでいたのか、蛇の道はヘビで日本での入手ルートがあったのか、実は滞在中禁断症状と戦っていたのか、評伝は大げさに書いているだけで、たいしたことなかったのかw。今となっては謎だし、掘り下げるような問題でもないのでスルーするが、ちょっと不思議ではありますね。

※ちょっと調べてみたのだが、ポールマッカートニーがコンサート目的で来日した時に大麻不法所持で捕まって拘置所に入ったのが1980年1月、村上ポンタ秀一がヘロインの不法所持で捕まったのが1978年だったようだ。それなりに取り締まりはやっていたはずで、謎は深まった。

3.4 Smokin' in the Pit/Stepsを聴いて

ようやく本題。
Smokin' in the Pitだが、前回書いた通り、いわゆるアコースティックなジャズを演奏したマイケルの音源が数えるほどしかない頃に、4ビート中心の長尺アドリブだらけ、しかも2枚組のアルバムということで、若いファンからは大歓迎された(と思う)。当時はいわゆるクロスオーバー(フュージョン)全盛で、エレクトリックな音が氾濫しており、アコースティックな音が新鮮だったというのもウケた要因かもしれない。
というわけで、日本のジャズ雑誌は「アコースティック回帰!」と騒いでいたような気もするが、どこまで当人たちにその気があったのかはよくわからない。どちらかというと、そもそも4ビートで育った人たちだし、昔よく聴いてた音楽を、スタジオ仕事の合間にお遊びで気楽にやってみたらウケちゃった、ぐらいのノリだったような気もする。
一方、伝統的なジャズの批評家サイドでは、スティーブ・ガッドの4ビートが「スイングしてない!」だとか、ブレッカーも「機械的でジャズの魂が感じられない」みたいな批判が多かったと思う。ただし、上にも書いた通り、若い世代、特にプレイヤーは大絶賛で、影響を受けた人間は数知れずだろう。

個人的にはやっぱり"Not Ethiopia"に一番インパクトを受けたかな。無調な感じのベースラインの上でサックスの音域を上から下まで、さらに私は当時よく分かっていなかったオルタネイトフィンガリング(替え指奏法)、や、フラジオ等々のテクニックを駆使しまくって、実に難解なフレーズを吐きそうになるほど吹きまくるマイケルには心底痺れたものだ。初めて聴いたとき「(当時持っていたアルバム "Impressions” の)コルトレーンみたいじゃん!!」と思ったことを覚えている。ちなみに、このマイケルソロ、前回書いた佐藤達哉さんの完全コピー集にも採り上げられてますね。高校生の私には、全然太刀打ちできなかったけど。
先発の渡辺香津美のギターソロ、スティーブ・ガッドのドラムソロも素晴らしいです。特にドラムソロはスティーブガッドの美味しいフレーズのショーケースみたいになっていて、このドラムソロをコピーしたドラマーは世界で数千人(数万人?)単位でいるはずw
小ネタだが、この曲、マイケルのソロの最後、ドラムソロの直前、スティーブガッドが、マイケルのソロの最後で一回り(八小節?)早くキメのブレークにいってしまって、取り繕うのが微笑ましいです。といいつつ、今回改めてオルタネイトテイク(ボーナストラック)、聴いてみたら、こちらではやはりマイケルのソロの最後、キメのキューをガッドが無視、というか合図が通じていなくて、マイケルとマイニエリがキメに行ってしまうという事故が発生していたようで、これが伏線なのかと思った次第。
あとは、やっぱり"Fawlty Tenors"ですかね。この曲、ブルース構成なのだが、ブルース12小節で言うところの、9-12小節目(実際には倍のサイズなので17-22小節目かな)だけベースがウォーキング、ドラムがチンチキの4ビートになる(これってNothing Personnelのテーマ部分と同じですね) 。聴いてるとその部分だけいきなり変な「推進力」を感じるわけで、いわゆる4ビートが格好いいと思ったのはこの曲が生まれて初めてだったかもしれない(それまでにも、ロリンズとかコルトレーンとかちょこちょこ聴いてたんだけど、4ビートの格好良さをあまり感じたことがなかった)。
上記の2曲に加え、"Young and fine""Tee Bag"など、各プレイヤーの長尺ソロが目白押しなのだが、各人のソロに対してスティーブガッドのドラムが色々仕掛けて、あるいはその逆もあり、なるほど、ジャズというのは、ライブ演奏でのプレイヤー同士の丁丁発止、いわゆる「インタープレイ」が面白いんだなあと理解したのはこのアルバムのおかげかもしれません。まあ、今となってみればちょっとワザとらしくやり過ぎな気もするけど、演る方も聴く方も血気盛んな若者という意味ではちょうどよかったんだろう。マイケルのソロは、、、すみません完璧です。ヘロイン仕込みの八分音符凄いなあwww。
というわけで、当時ジャズミュージシャンになりたかった人にとっては必須音源だったと思うのは私だけなのだろうか。ちがう育ちをした人もたくさんいるとは思いますが、私にとってはジャズの原点みたいなアルバムですね。なんか書いてて興奮してしまった。

3.5 マイケル/セブンス・アヴェニュー・サウスのその後

さて、マイケルは上記の通りヘロイン中毒が悪化していたが、このアルバムを録音して1年後、麻薬との縁を切るため、意を決してリハビリ施設に入所する。その話はまた次回。
悪の巣窟、セブンス・アヴェニュー・サウスはその後も営業を続けるが、ブレッカー兄弟をはじめとするミュージシャンのライフスタイルや経済状況の変化、さらにはニューヨークの環境変化を受けて、1985年の年末に閉店する。実は、私はその二か月後、1986年2月に卒業旅行などと言う名目でニューヨークを訪れるわけだが、残念ながら数々の名演を生んだと思われる聖地(っていうか悪の巣窟)を訪問することは叶わなかった。残念。
というわけで、今回はここまで。ちょっとおまけも。

3.6 おまけ

おまけ情報1

Facebookかなにかで拾った、1983年12月のセブンス・アヴェニュー・サウスのスケジュール。手書きなのが時代を感じさせるが、よくよく眺めてみると全てのジャズ・フュージョンファンがよだれを流す凶悪なラインアップですな。パットメセニー、チャーリーヘイデン、アルフォスターのトリオとか、チャックローブバンド(ミッチェルフォアマン、ブレッカー、ピーターアースキン)とか観たかった。当然、ミンツァーのビッグバンド(マイケル入り)も。

おまけ情報2

我々世代にとってセブンス・アヴェニュー・サウスといえば、このビデオが思い出される。このお店の様子が映像で残ってるのはこれだけじゃないかな。Steps結成のちょっと後かと思うが、マイク・マイニエリ名義のバンドで同クラブに出演した時のライブ映像(このYou Tube映像)が当時Laser Disk (!)で発売されていたのだ。高田馬場のジャズ喫茶マイルストーンで、ミュージカル映画の端役に出てくる若いチンピラみたいな黒人が物凄いドラムを叩いているのを観てやっぱりニューヨークは凄いなあなどと感心していたものだ。この後すぐにWeatehr Reportに加入しちゃうけど。

おまけ情報3

当時、バブル前ということもあり、日本でも大企業がスポンサーをして大々的にジャズフェスティバルなどが行われていた。上にも書いた通り、ブレッカー兄弟はそのジャズフェスティバルのひとつであるAurex Jazz Festivalで来日し、即席バンドで何曲か演奏し、それがテレビで放送された。このマイケルの名曲、"Straphangin'"を聴いたのはこのテレビ放映が初めてだったはずだ(同曲が入ったアルバムはその半年後ぐらいのリリース)。これは完全に腰が抜けた。上に書いたが、マイケルが嫌いだと言っているのはソロのパートのII-V進行が出てくるところですね。私はこれでなんとなくII-V進行を意識し始めたのだが。ソロの最後の方でピーターアースキンとアルフォンソジョンソンが堪らず4ビートになるところとか、異常に格好いいよねえ。いまだに痺れます。

おまけ情報4

私がマイケル・ブレッカーを始めて見たのは、上にも書いた1981年5月のブレッカーブラザーズの来日の際のコンサートである。確か新宿厚生年金会館だったのだが、二十歳そこそこの若造マーカスがステージではしゃいでいたのが印象的だった。今となっては信じられないが、高校三年生の私はサックスを持っていき、本番終了後楽屋の前で「出待ち」をして、当時使っていたソフトケースにサインをしてもらったのだった。2メートル近いマイケルに、下からぬっとケースを差し出したら、なんかびっくりしていたのを覚えている。確かにシャイな感じだったが、嫌な顔一つせずニコニコしながらサインをしてくれた。その当時ヘロイン中毒だとは全く知らなかった、、、
これは、そのツアーの際六本木ピットインで録音された音源ですね。素晴らしい。

というわけで、異常に長くなりましたが、続きはまた。

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