マネーボール2.0

2000年代のオークランド・アスレティックスに代表される「マネーボール」は、これまで無視されていた新しいデータ分析手法を活用するというチームの(フロントオフィスの)大胆さがその最大の特徴だった。好感度が高く口のうまいジェネラル・マネージャーのもと、過小評価されている選手をトレードで獲得する際の選手の分析がその真骨頂で、もう少し後になるとプレーの評価のためにレーダーを活用した打球のトラッキングのような技術まで採用されていた。今のStatcastのような仕組みだが、選手のプレーの評価から可能な限り主観を排除するというのがその主たる特徴と言えるだろう。打球に飛びついてアウトにしたからファインプレーなのではなく、この場所にこの速度で飛んできた打球はデータによれば60%の確率で二塁打になっているのをアウトにしたからこそファインプレーだというわけだ。

2010年代に入ると、もはやその手のデータ分析は当たり前のものとなり、各チームとも過小評価されている選手(なおかつチームを勝利に導く力を持った選手)の獲得を目指すのは当然のこととして受け止められている。そのため、金額競争となり予算の少ないチームには同じ手を使うことがより難しくなった。オークランド・アスレティックスは3年ごとにチーム再建のため活躍した選手たちを売り飛ばして負けながらまた新たな選手を育成するという昔ながらのやり方に回帰せざるを得なくなり、その負けチームの編成の1年目となった2022年は現在のフランチャイズになって以来初めての100敗以上を記録した。

一方で2010年代中盤以降に猛威を奮ったのが、ヒューストン・アストロズである。2011年のチーム売却以降低迷し、2013年にチーム数のバランス整備のため激戦区のア・リーグ西地区に編入されたときはこれでシアトル・マリナーズが最下位にならなくて済むと歓迎されたほどの弱小チームだったが(そして実際に最下位になった)、2019年のワールドシリーズでのサイン盗み発覚もあったとはいえ、現在のところこの数年でMLBで最も勝ち星を挙げているチームになった。

なんといってもアストロズの特徴は、独自の選手の育成にある。ドラフトで獲得して育て上げたスプリンガーやコレアといった大物選手がフリーエージェントになると引き留めもしないのだから相当な自信があるのだろう。確かにグリエルやバーランダーのような少数を除けば主力選手のほとんどが生え抜きで構成されている。

その背景には、チームの低迷期に思い切って方針転換して取り入れた、精密データを駆使したトレーニングがある。今でこそ大谷も利用しているが当時は無名だったDrivelineのような私設トレーニング企業との連携や、フライボール革命と呼ばれるようになる打撃理論の導入の他に、高精度のセンサーを使った動作の解析がその大きな特徴となっている。もはや投手の変化球は経験と勘を駆使したギャンブルによって習得されるものではなく、指の位置や関節の動き、回転数と変化し始める場所などを細かく調べ上げてデザインするものになりつつある。変化球はとにかく変化すればいいものではなく、他のレパートリーと組み合わせた時にどれだけ効果的なのかが重要なのだ。このようなトレーニングはチームにトレードで加入したベテラン投手の直球の回転数が異常に上がったことなどから当初は何か特殊な滑り止めなどが利用されているのではという疑惑となっていたが、やがてその背景となるトレーニングが知られるようになると他チームもこぞって導入するようになっていった。

しかしこのような大胆な方針の転換はかなり難しいもので、特にコーチの仕事には重大な影響を与えるようになった。近年MLBでも女性のコーチが増加しているが、これは決してポストモダニズムに影響されたキャンセルカルチャーを恐れたチームの方針によるものではなく、コーチにはこれまでの野球経験よりも専門的なトレーニング理論に加えてセンサー機器やデータの扱いといった高度な知識をより多く要求されるようになってきたからだ。現在フィラデルフィア・フィリーズのジェネラル・マネージャーを務めるサム・ファルドは元選手ながら現役時代のオフシーズンにスタンフォードで統計学の修士号を取得した変わり種で、その経験と知識を活かして以前はデータの活用法を選手にも理解できる形で使えるように伝えることを任務とするコーチ・アドバイザー職に就いていた。大きな設備投資だけではなかなか選手も動かないので先進的なチームではこのような取り組みを進めている。とはいえ、かつてのマネーボールがさまざまな論争を引き起こしたように、その浸透にはまだまだ時間がかかるようだ。一方でヒューストン・アストロズのように予算はあってもチームが何年も低迷しもはや失うものが何もない状態になった組織の場合は皮肉にもこのような変化を受け入れる土壌が出来上がっていたといえるだろう。

その結果、アストロズはFAで選手を失っても十分に育成で補強できるという強い自信を持って編成を進めることが可能になった。普通、チームのセンターやショート、キャッチャーという縦のラインはそのチームの要であり、活躍した選手を失うのは大きな痛手となるはずだが、いずれもドラフト1位で獲得して育て上げた捕手のジェイソン・カストロ、センターのジョージ・スプリンガー、ショートのカルロス・コレアを次々とFAで失ってもその屋台骨はびくともしないというのは脅威である。

マネーボールにバージョン2.0があるとすれば、このように高精度のセンサーを利用したデータ分析を活用したトレーニングがそれに当たるといえるだろう。選手の実績の分析にとどまる旧来のマネーボールでは未来の予測が難しいという課題は当初から指摘されていたことではある。それが育成によりカバーできるようになるのであれば、今後の競争はまた別のフェーズに移り変わっていくはずだ。奇しくもマネーボールで一世を風靡したオークランド・アスレティックスのビリー・ビーンも今年で還暦を迎え後任を長年右腕として働いてきたデヴィッド・フォーストに譲り球団副社長からオーナーのアドバイザー職にステップダウンすることになった。つまり数々のリーグ優勝とポストシーズン進出を果たすもとうとうビリー・ビーンの陣頭指揮のもとではワールドシリーズを制覇することができなかったということになる。とはいえ野球のデータがこれほどの注目を集めるようになったその功績は誰も否定できるものではない。お疲れ様でした。


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