ある「ギフテッド」当事者の半生(5) どうしてこうなった

〜前項(オーストラリアに着いて)の続きです〜

流石に詳細を書くとものすごい量になっちゃうので、ざっくばらんに書くようにしますw

着いた翌日に色々手続きをしたが、全てスムーズだった。
ただ驚いたのは日本円の凄さ。ブリスベン郊外の田舎町にあるANZ銀行の支店に日本円で10万円持っていったら、10分も待たずにオーストラリアドルに換金されて出てきた。
日本円の信用度には本当にびっくり。

その後、翌週になって学校の語学試験を受ける。結果はダメ。
付属の語学学校に入ることになる。
スピーキングが問題ないのにライティングに問題があると言われたので、それ以降電子辞書とメモ用紙を持ち歩き、わからない単語があったら「それどういうスペル?」と聞き、辞書で意味を調べて夜20回書くと言うことを続けた。
あの頃は授業が楽しい楽しくないではなくて、とにかく必死だった。

それから3ヶ月経ち、2回目の到達度試験。結果はなんと合格。
3ヶ月でここまで到達できたのはミラクルだ、とボブさん。
その後の理解成熟度試験(これで何年生に編入できるか決まる)で、17年次(高校2年生相当)への編入が可能になった。当時私は15歳だったので、年齢より上の学級へ入ることが出来たのだ。ものすごく嬉しかったし、日本を離れて良かったとあらためて思うようになった。
ただルークには少し申し訳ない気持ちになったが、本人は「気にするな、歳は関係ない」と完全に東アジア的価値観を放棄していたようだ。

 私がいた学校は私立校で制服もあり、なんと学校規定の帽子まで存在した。また英国国教会の影響が強く、ジェルサルム(エルサレム)を歌う機会もあったほどだ。
また授業内容も変わっていた。現地の学校だから当然欧州の歴史から授業で教わるのだが、ディスカッションの機会が大変多かった。歴史であれば「西洋と東洋の境目はどこか?」であったり、数学であれば「なぜ円周率は割り切ることが出来ないのか?」と言った具合だ。ディベートのように相手を打ち負かすことではなく、相手を説得し納得させるという手法はあれで学べた気がする。
 日本の教育が詰め込み型と言われるのは、それを行わないという所以だろう。

そして季節は過ぎ、あっという間に18年次も前期が終わりかけた頃。
皆で「将来何をしたいか?」という話がチラホラ出てくる時期だ。そんな時にとある教員に呼び出された。オールドマムと言った風貌の教員であった。
 「貴方は何を希望する?アメリカへ行くか、ヨーロッパへ行くか、オーストラリアに残るか、日本に帰るか。貴方であればどれでも出来るけど、オーストラリアに残って、しかも貴方の親がお金を払えなければ、お金を出してくれる財団につなげても良いよ」奨学金のことである。

 はっきり言って悩んだ。昔はNASA職員になることが夢だったが、この頃は成績的に化学と物理学と数学が飛び抜けて良かった以外、「普通よりちょっと上」程度だったからだ。もちろんそれでもNASAには行けるかもしれないが、その頃になって「人間の脳の仕組み」に大変な関心を持つようになっていた。
なぜか?脳以外の臓器は、ある程度検査によって数値化できる。しかし、精神的なものは未だ数値化出来る手段が確立されていない。歴史的に見ても精神に作用する薬は偶然発見されたものがほとんどだ(オーストラリアであればジョン・ケイドのリチウムによる平穏化)。つまり、医学科へ行きたいと言う野心が出来てきた。

ただ「オールドマム」の質問に即答することは出来なかった。金銭的なことは自分ではどうにもならない(ビザの関係で就労も難しい)から、考え抜いた末に母に電話で相談した。母は私が海の向こうで楽しく生活していることをエージェント経由で聞いていたらしく「今の学費プラスアルファくらいなら出せる。好きにやりなさい」とだけ答えた。

 腹は決まった。イギリスに行こう−

なぜイギリスかというと、NHSシステムにも興味があったからだ。NHSとはNational Helth Serviceの略で、日本語訳すると「国民健康サービス」。日本の健康保険と似ているが、英国では自己負担が発生しないのだ。またオーストラリアも加入しているコモンウェルスの主だし、文化的にもイギリスが一番似ているかなと思ったことがある。そして、チャネルトンネル(ドーバー海峡トンネル)には高速鉄道もカートレインも走っており、ヨーロッパにかなり行きやすく色々な学習に最適な場所だと考えたからである。

オールドマムにそのことを伝えると、少しがっかりした表情を浮かべながら「オーストラリアは貴方を必要としていると思うけど、貴方の決定なのね。幸運を祈るわ」


よし、将来はイギリスに住もう−
そう当時決意したのである。

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