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するめ図録②

 昔のことを思い出しながら、本当に狡い人、とキヨは小さく声に出して呟いた。昨日食べたものはなかなか思い出せないのに、どうしてだか昔のことは案外鮮やかに思い出せる。それは、その思い出が自分にとって必要であり大切なものだからなのか。それにしても、昔のことすぎて別の色を上から塗ってしまっていたり、自分にいいように書き換えてしまっていたりするかもしれない。 

 あのときの正宗の顔はよく覚えている。今、窓の外に見る顔もあのときとあまり変わりはないように思えた。けれど、何もかもが変わってしまっていることを認めずにはいられなかった。

 町を出た正宗のことをキヨは待ち続けた。学校を卒業し働きはじめ、ちらほらと舞い込んでくる見合い話も全て断った。しかし正宗が帰ってくる様子は一向になかった。それどころか、連絡さえなかった。

 はじめの頃は、どこかで何かあったのではないかと心配で、正宗の家へ行き何か連絡はないかと尋ねていた。けれどいつ行っても正宗の母は迷惑そうに何の連絡もない、とまるでキヨを追い払うようにいい、次第にその態度に気まずさを感じるようになりそのうちに訪ねることもしなくなってしまった。

 それでもキヨは一途に正宗を待ち続けた。両親はなかなか結婚をしようとしない娘に苛立ち心配したが、キヨはその理由を語らなかった。結婚前に男を知ったなどといえば咎められるに違いなかったし、小さな町故それで近所から何かひそひそといわれるのも嫌で、正宗とのことは誰にも話していなかった。

 時は流れ、年老いた父が死に、続いて母も他界するとキヨは急にさみしさを感じるようになった。それまでも正宗に会えないさみしさはもちろんあった。でもそれとはまた違う、自分が何もかもから切り離されてしまったような不安も加わり、深く大きなさみしさがキヨを抱え込んだ。

 愛する人も戻ってこない、大して孝行もしてやれぬまま両親も死んでしまった。もう自分は本当に一人なのだ。ここには何もないのだ。

 キヨは正宗と別れて以来、初めて泣いた。声を上げて泣いた。

 ある夜、暗い海をじっと見ながら、ここから逃げ出したいとキヨは思った。しばらくは一人で暮らしていたが、胸に巣食うさみしさは広がる一方だった。正宗を想う気持ちは変わらなかったが、だんだんと何を待っているのかわからなくなっていき、今の自分が馬鹿らしく惨めに思えた。自分だけがここにしがみついていることが無意味に思えた。ここではないどこかへ行けば、このさみしさは消えてなくなるのではないだろうか。そんなふうに思えた。

 小雨が降り出してキヨは家のなかに駆け込んだ。そして玄関の戸を閉めたとき、町を出ることを決めた。

 生まれてからその小さな町を一度も出たことがなかったキヨは、都会といわれるところに初めて行き、驚きを隠せなかった。それと同時に正宗はもともとこんなところからあの町に来たのか、それならまたあの町を出たくなるのも仕方ないと思えた。

 キヨは懸命に働き、何とか生活を立て、誰にも頼らず何もかもを一人で頑張った。とにかくそこで日々を送っていくのに精一杯だった。

 暮らしが落ち着き慣れてしまえば、ごちゃごちゃとした街も、他人に干渉しない、されない暮らしも楽しめるようになった。勤め先では仲の良い友達と呼べる者も出来た。キヨはその暮らしを自分なりに謳歌していた。

 けれど、やはりまだ心のどこかで正宗を待っていた。人波に溢れている大きな交差点を歩いているときなど、似た人を見かけるとつい何度も振り返った。

 何人かの男から気持ちを打ち明けられたり時には付き合ったこともあったが、いざ結婚の話が出ると途端に逃げ腰になった。待っていても仕方がないとわかっていても、もしその一線を越えてしまってから再び正宗と会う日が訪れてしまったらきっと自分は後悔すると思った。キヨのこころのなかにはずっと正宗がいたのだった。誰かと一緒にいればいるほど、正宗の影はずっと濃くなっていくようだった。いつしかキヨは、誰とも付き合うことをやめてしまった。

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