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するめ図録①

 スルメを噛みながらキヨは窓に貼りついていた。くちゃくちゃと音を立て、口のなかに広がっていく生臭さを少しだけ疎ましく思いながらも、それを止めることは出来なかった。

 十時少し過ぎたところで玄関から人が出てきた。向こうがこちらに気付くことはないとわかっていてもついカーテンを引き、身を隠すようにしてしまう。カーテンの隙間から食い入るように通りの向こうを見る。 

 小さな子どもと手を繋いだ大きな体躯の白髪の男を、キヨはじっと睨みつけるように見つめた。スルメを握りしめている手に思わず力が入る。今にも目の前に出て行って自分の姿を見せたい思いに駆られるが、勢いがあるのは気持ちだけで最近めっきりいうことを聞かなくなった体は立ち上がることさえ億劫がる。 

 スルメを飲みこもうとしたとき、唾液が咽喉の変なところに引っ掛かって激しくむせ、キヨは窓から身を離した。冷めた緑茶を啜り息を落ちつけながら、こんなことをしていても不毛なのはわかっていると一人ごちて、ため息を吐いた。でも、わかっていたってどうにも出来ない気持ちもあるのだ、そう思いながら残ったスルメを袋にしまって手を洗うとキヨは窓の前に戻って腰を下ろし、汚れている硝子を服の袖で擦った。 


 キヨと正宗が出会ったのは、今から六十年程前のことだった。 

 正宗は親の仕事の関係でキヨの住んでいた海辺の町に越してきた。年はキヨの三つ上だった。  

 二人の家は少し離れていたが、都会から来た正宗は大海に魅せられキヨの家の近くの海辺によく足を運んでいた。キヨの父は漁師をしていたのでその手伝いでキヨもよく海辺に出ていた。はじめのうちは軽く挨拶をするだけだったがそのうちに話をするようになった。正宗は海にまつわる話が好きで、キヨは父から聞いた漁や海の話をした。

  正宗は、ことスルメに興味を持っていた。キヨの家の前にずらりと並べて干してあるスルメイカを初めて見たとき、正宗の目はきらきらと輝き頬は紅色した。キヨにしてみればイカが干されているだけでどうということのない風景だったが、都会から来た正宗の目にはそれが余程珍しく映ったのだろう。すごい、きれいだ、すごい、と正宗は繰り返しいった。キヨはそんな正宗を幼い子のように可愛いと思った。見たことのない景色に興奮し、感動し、はしゃぐ姿に愛しさを感じた。

  それから正宗はスルメイカの虜となり、市場に足しげく通ってはスルメの観察をしたり時にはキヨの家の前に干してあるスルメを写生したりした。町の小さな図書館にあるだけのイカにまつわる本を読み、いつしか正宗は、自分はスルメ図録を作るのだとキヨに語るようになった。そんなものを作ってどうするのだろうか、一体どんな人がスルメの本なんか見たがるのだろうかとキヨは内心思ったが、口には出さなかった。正宗は真面目な顔をしていたし、何よりその夢を語るときの顔はキヨにはとても素敵に見えた。 

 よく人気のない浜で岩場に並んで腰かけて日が落ちるまで二人は話し込んだ。共に過ごす時間が増えていった二人が恋に落ちたのは当然の成り行きのように思えた。 

 やがて二人は人目を忍んで海小屋に行くようになった。肩を並べる距離は徐々に近付き、ついに互いの体に触れ合ってその熱がどちらのものかわからなくなりかけたとき、正宗は突然、あっと声を上げ鞄から一冊の本を取り出した。慌てて頁を手繰るのをキヨが怪訝な顔で見ていると正宗はこれ、といって開いた頁を指差した。キヨが覗き込むとそこにはイカの交接の図が載っていた。 

 よくわからなかったんだけど、今の僕らはこんなふうだったからこうやってくっつけばいいのかと思って、といって正宗はキヨの顔を見た。一瞬、見つめ合った二人はその後すぐに笑い出した。こんなときにまでイカの話をする正宗がキヨにはおかしかった。そしてこうして笑っていられる二人の時間が愛しくて仕方なかった。

  繰り返される少しの痛みと甘さに酔いしれながら二人の距離はどんどん縮まっていった。いつしか二人は将来の約束も結んだ。それは子どもの口約束のようなものだったが、たとえ砂のように簡単に掌から零れ落ちてしまう約束だとしてもキヨはそれを信じていた。キヨは、この町で正宗とずっと一緒にいられると思っていた。けれど正宗のなかではキヨへの想いと同じくらいスルメへの想いがどんどん膨らんでいった。

  それはキヨにしてみれば突然のことだった。あるとき、正宗は大きな荷物を持ってキヨのところへ訪ねてきた。一体何事かというとスルメを巡る旅に出るという。意気揚々とそう伝える正宗に、キヨはしばらく言葉が出なかった。 

 呆然としながらキヨの体は少しずつ小さく震えはじめた。何を馬鹿なことをいっているのだろうか。スルメを巡る旅って、わたしはイカに負けたというのか。正宗が話すのを聞きながら、次第に自分は置いていかれるのだという気持ちが込み上げてきて、目の前が真っ暗になった。正宗と離れるなんて考えられなかった。 

 小さく何度も首を横に振りながら、わたしも一緒に行くと思わず口を突いて出ていた。今まで笑みをたたえて話していた正宗の顔はすっと静かになり、少し困ったようになった。だって結婚の約束もしたじゃない、とキヨがまくしたてるようにいうと正宗は完全に黙り込んでしまった。

  気詰まりな沈黙がしばらく続いた後、正宗は小さな声でわかってほしい、といった。

  僕らはまだ若いんだ。やりたいことが見つかったら、それをやるべきじゃないか。僕は様々なところの海を渡り歩いて、スルメ図録を作りたいんだ。正宗の決意は固く、それは覆りそうにもなかった。

  じゃぁ、わたしはそんなあなたと一緒に居たい。一緒に行きたい。そういうキヨの目からは、いつのまにかぼろぼろと涙が零れていた。 

 君は、まだ学校に通っているし連れては行けないよ、と正宗は静かにいった。

  いい、学校なんて辞めてもいいの。キヨがそういうと正宗は困り果てた顔になった。しゃくり上げるように泣きながら、わたしのこと好きじゃなかったの、嫌いになったの、とキヨはいった。正宗はそんなことはない、君のことは好きだ、ときっぱり答えた。 

 キヨは手で覆っていた顔を上げ、なら……と口を開いたが、それを遮るように正宗は、だから連れて行けないよ、とはっきりといった。 

 いつかきっとここに帰ってくるから。立派な本を作って、君に一番にそれを見せに帰ってくるから。正宗はキヨの肩をしっかりと掴んでいった。帰ってくるのを待っていてくれとはいえない。でももし君が待っていてくれたのなら、僕はまっすぐに君に会いに行くから。

  正宗はキヨの頭を優しく撫でた。キヨは小さく頷いた。頷くしかなかった。

 そうして正宗はキヨの住む町から出て行った。

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