見出し画像

頭のいい人は良い、賢い人は素晴らしい、の暴力性

みんなが当たり前に信じている価値観についての疑問。

頭のいい人は良い
賢い人は素晴らしい どちらもほぼ同じ意味だが、
こうやって当たり前に信じられている価値観は、そのように教えられてきたからなのか、
多くの人にとっても『真理』であるかのように扱われる。

『頭がいいことは良いこと/賢い人は素晴らしい』が疑われることが少ないが、本当だろうか。

賢い人は素晴らしい、を疑ってみよう。

論理的に考える

『賢い人は素晴らしい』が真だった場合について。 
「賢い人は素晴らしい」という命題の裏・逆・対偶について考える。

裏 (converse): 素晴らしい人は賢い
この場合、「素晴らしい人」すべてが「賢い」とは限らないため、必ずしも正しくない

逆 (inverse): 賢くない人は素晴らしくない
この場合も、「賢くない」から「素晴らしくない」は偽

対偶 (contrapositive): 素晴らしくない人は賢くない

これが唯一、元の命題から論理的に導かれる正しい条件文。「素晴らしくない人」は必ず「賢くない」と言える。

つまり、元の命題「賢い人は素晴らしい」が真であれば、その対偶「素晴らしくない人は賢くない」も真となり、唯一正しい。
論理的に逆と裏は必ずしも正しくない。


これを見てるみなさんへ



とはいっても、命題が『ただの感想』だ。なので、論理的な正しさは別として、対偶の意見はいい考え方ではない
と思えないだろうか?

「素晴らしくない人は賢くない」
「素晴らしくないなら、賢い人ではない」

しかしながら、同じく『真』であるはずの考え方で、世の中で広く信じられている『賢い人は素晴らしい』に疑問を呈する人は少ない。

私の主張


知的能力を過大評価しすぎて、賢くない人の価値を『バカ』として無効化していること自体が賢くない。
例えばアボリジニのような原始的な狩猟社会ではIQが高くなくても社会が成立する。

IQは正規分布だから、一定の割合で存在する、IQの低い人の価値を低く見積もる社会に、まず問題がある。

知的能力の代表例としてIQというガバガバな指標がよく使われるため、わかりやすい例えとしてIQを使用した。

私の主張の根拠は、特に①社会包摂の重要性、②個人の尊厳、③価値観の相対性(IQを重視しない社会もある)の観点からである。

ゆえに、

頭のいい人は良い / 賢い人は素晴らしい
という主張には、そうでない人への一定の暴力性がある。
もし、頭がいいのなら、そのことに気づくべき。


この記事の主張は、
知的能力を過度に評価し、それに基づいて人の価値を判断しがちな現代社会への警告だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?