暮らしと友

東京にいるとき、友達と遊ぶことは少なかった。広い街でどんなふうに会えばいいかわからなかった。でも部屋に友達が来たり、真夜中にすぐ近くの友達の家に行ったり、駅前でばったり会ったり、そういう時間はとてもよかったな。札幌に帰って来てからなおさらにそう思う。思っていたよりずっと、僕は好きだったみたい。
今、札幌にいると東京の友達に会いたくなる。最新の僕を知っている人たち。過去を捨てたい気持ちはないけど、シンプルに今とこれからの話をするとき、旧知の仲が邪魔に感じることもある。場所がどうってより、自分の知らない街で知らない人と向かいあって話すってことがとても刺激的なんだと思う。裏返せば場所と人が多すぎるせいで、出会いの価値が低い。意味合いの少ないブッキングライブだったらあたりまえだけど。ほとんど誰とも話さず退屈な気分で家路を急ぐとき、札幌の友達に会いたくなった。昔から僕を知ってくれている人たちに。何も言わなくたってわかってくれる人たちに。

僕はいつもここじゃないどこかへ行きたい、居たいと思うだけなんだろうか。どこにいたって、やることはおなじだ。考えごとをしたとき、いつもこの言葉におちつく。おちつく場所は必要。好きな場所に行きたい。自分の部屋が好きだ。自分の暮らしをしたい。僕はそこから遠くへ行ってそして帰って静かに眠りたい。

たとえば、家も住所もなくたって、ずっと旅をすることはできると思う。朝まで歌ったり飲んだり歩いたりして、昼にあたたかい場所で眠るのもいい。友達と布団をわけあったり炬燵やソファで眠るのだってたのしい。だけど東京を離れる7日前に家を引き払って、友達の家に泊まったり、こっそりアルバイト先の事務所で眠ったりした。ほんとうの帰る場所がないのは、なんだかこわくてさみしかった。好きなコップで酒を飲むこと、自分のにおいがしみついたベッドで眠ること、朝起きてゆっくりコーヒーをいれること、使い慣れたシャンプーで髪を洗うこと、洗いたてのシャツを干しながら着た日のことを思い出すこと、あの店で手に入れたレコードに針を落とすこと、米を炊いて安上がりの野菜と肉で味噌汁や炒めものをつくること、めんどくさがってたまった食器をロックンロールを聴きながら片付けること、自分のタイミングでぼーっとして、気が向いたら小説か映画のどちらかを選ぶこと、夜中にギターを静かに鳴らすこと、そしてまた眠ること。実家に帰ってきてからの日々はありがたいことばかりで、むしろうしろめたさを感じてしまう。家族とご飯を食べたりテレビを見たりするのはとてもしあわせだ。ここには長くいれるだろうけど、そうはしないだろうな。
札幌に帰ってきて落ち着いて、また日々があわただしくなってきている。視界が澄んできて、自分のこともよく見える。
まだ知らない場所、まだ出会っていない人、会いたい人、そしてやりたいこと。疲れ果てれば忘れかける。たるんでいては遠くへ流される。いつも自分の場所は自分で選べる。助走をつける。ひとつ、ふたつ、みっつとなるべく欲張りに。いつもこの足を動かすだけでどこにでもいける。白紙なことは幸せじゃない。せっかくの白紙、もっとはっきりイメージしたいって思ってる。

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