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【#19】教育と探求のバランスが肝要であるが、その程度は全く未知である【f_Y.A.(today)】

探究学習が高校で必修になって、現場の先生たちは手を焼いている..。そんな先生たちをサポートするサービスの開発者をやっている身としては、やはり「探究」という言葉をよく考えなければいけない。(一応、研究者ライクに生きている人間ということもあり)

「探求学習」という言葉はなかな意味深な言葉である。やはり「学習」という言葉がつくと、あたかもそれが教育の一環であるかのような響きを持つ。(必修かどうかを気にしている時点で、当たり前のように教育活動における探求を議論してるのだが)

ところが、探求という営みは本来教育とは全く異なる次元にあるはずのものである。個々人が内に持っている好奇心と興味によってなされるものだからだ。対照的に、教育は子供を社会の労働力に変換させる営みである。

本来、探求というのは大学のような場所で行われ、教育は小学校から高等学校までで行われるのが通常である。大学の歴史は学校より遥かに古く、教育は近代という時代の要請を受けて急拵えで作られたものである。
(日本では大学を高等"教育"と呼んでいるところがさらに話をややこしくさせている..)

では、これから脱近代を迎えるにあたって、探求だけをやっていれば良いのかというとそうではないはずなのだ。(イリイチの『脱学校の社会』、それを受けた『冒険の書』ではそのようなことが言及されている。)

一般的に物事の解決策というのは既存の知識の組み合わせで得られる場合が多い上、そもそも体系だった数学や物理学の知識が無くして理学・工学分野の問題を解決するのはなかなか難しい。

例えば光が何かを理解しようとした場合、最低限物理では波動と電磁気の基礎素養が必要になる。必要になるたびにかいつまんで学習するコストよりも、100年以上前に体系化されているものはその構造でインストールしてしまった方が安い。

ではずっと勉強しまくっていれば良いかというと、そうなると探求の時間が消えていき..という現象に遭遇する。(もちろん神経科学のように、物理学・生理学・化学などが複雑に入り組んだものは基盤の構築に相当の年月を要するわけだが..)

ではどの程度のバランスが好ましく(もちろん人による)、それを支えていく脱近代に求められる教育・探求システムとは一体どのようなものかについて、考えていきたいと思っている。


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