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顔面けいれんの手術

 (実体験を元にしていますが、あくまで作品としてお読みください)


 脳のMRI検査をした。「これは手術が必要ですね」MRI検査の画像を見ながら、その脳外科医は、ぶっきらぼうな口調で私にそう言った。病名は片側顔面痙攣。右耳の後ろを切開し、顔面神経と当たっている血管を除去する、微小血管減圧術という手術が必要だという。脳の異常だということで、家族への通知も必要だということだった。

 この病院にくる六ヶ月前、ちょうど2020年の6月頃なので新型コロナウイルス感染症が蔓延し初めての緊急事態宣言が政府より発令された直後の頃から、徐々に目が開け辛い症状がどうにも煩わしくなってきた。自転車にも乗ることができなくなり、ついには、外に出歩くこともままならなくなってきた。

 まずは眼科をたくさん受診した。眼科の医師はぶっきらぼうな人物が非常に多く、少し腹立たしく思っていた矢先のことだった。ボトックス注射を打ってもらったこともあるが一過性のものであり一、二ヶ月すれば元に戻ってしまい、保険がきいても一回1万円くらいするので、やめてしまった。どうにも困っってしまい、SNSの非公開グループに相談して見たら、その中に脳外科医の方がいて「まずは脳神経外科あるいは脳神経内科を受診してみては」との助言をいただき、近くの脳神経外科から紹介状を書いてもらい、今日、都内の大きな病院の脳神経外科を、ようやく受診してみたところだった。

 手術には約2週間をようするとのことだった。仕事もあることだし、どうしようと悩んでいると、医師は、ちょうど年末年始に差し掛かる月日だし、12月28日だと私の手も空いている。年末年始だし、ちょうどコロナ禍の中にあるので休みは取りやすいのでは?との提案をしてくださった。

 早速翌日、広島に住んでいる両親、そして長野に住んでいる姉にも連絡、相談をし、12月28日に手術をしてみようと思う旨を電話でその医師に伝えた。

 それにしても、不可思議な症状で、目の瞼が自然に開けられなくなり、閉じてしまうと手でこじ開けないとどうにもならなくなるのだ。手術をするようにしかその脳外科医は選択肢を示さなかったので、私はその手術をすることに同意したものだった。

 頭の手術だけに、抵抗感はものすごくあったし、手術しか選択肢はないのかと、少し暗澹とした気分にさせられたが、両親も姉も遠くにおり、深く相談する時間もなく手術の日程も着々と近づいていった。職場にも一応、年末にそういう手術をするので、有給休暇をもらえないかという旨を上司に相談し、受け入れられた。
 入院が12月25日にする予定だったので、24日にて仕事納めをし、独りでコンビニでケーキやお寿司を購入し、ささやかなクリスマスパーティーをした。明日のクリスマスに入院だという現実に陰鬱な気分に陥り、少し泣きそうな気分になりながら、安いシャンパンで酔っ払いながら、明日の入院のために浅い眠りについた。

 翌朝、入院のためにキャリーバックを引きづりながら、電車に乗り、入院先の病院に着いた。独りでの入院にとても不安を感じていた。入院の手続きに、受付の人が差額ベッド代がかかる病室を案内してきたので、ナーバスになっている上にちょっとした苛立ちを感じた。「差額ベッド代なんか聞いてないよ!」と少し強い口調で抗議すると、少し待てばベットが空くというので2、3時間待つことになった。それにしても事務の職員も医師もこの病院は少し愛想が悪い。これからの入院生活がどうなるのか、さらには三時間にわたるという手術がとてもに不安になってきた。お昼過ぎくらい待って、ベットが空いたというので無事に入院をすることができた。

 入院をすると、看護師や、手術をする主治医の助手の医師や麻酔科の医師などが挨拶にこらられた。だいぶん経ってから最後に主治医が挨拶にこられれた。相変わらずぶっきらぼうな主治医なので、本当に大丈夫だろうかという不安がますますつのってくる。だけどここまでくれば、もうその主治医に全てを預けるしかないと腹を括らなければならない。でも不安で不安でしょうがない。どんな手術になるのだろうか。

耳の後ろを切開するので、顔面神経の近くに聴力神経が近くにあり、そこに触れると聴力を失うかもしれないと言う危険があるということを主治医は言わないまでも、スマホで病名を検索してみて知ってしまった私は、手術がますます恐くなってきてしまった。もう少し、時間を置いて考えて手術や手術先を考えた方が良かったのではないかということが頭によぎる。しかし、もう入院してしまったので、後には退けない。3日後に手術だ。食欲はあるのだけども、寝る前にいつもの睡眠導入剤を飲んでも、この3日間、夜にほとんど眠ることができなかった。唯一の救いは来てくれる看護師がみんな可愛い子ばかりだということだろうか。

 読書をして時間を潰しながら、3日経ち、手術の日がついに来てしまった。朝から手汗が出てしょうがない。昼すぎから手術をする予定になっているので、手術着に着替えて待っている時間がとても長く感じられた。看護師に呼ばれて、同行し歩いて手術室に行く。その道程も病院の普段入らない通路を通るので薄気味悪く、着いた手術室もとても不気味な雰囲気を醸し出していた。名前や、生年月日などを確認し、いろんな事務的な質問をされながら、手術の準備が続いていく。「今から何の手術をしますか?」という質問を最後に意識が朦朧としてきた。全身麻酔が効いてきたのだというのが、朧げながら、体感することができた。

 再び目が開くと主治医が私の名前を呼びかけていた。「手術が終わりましたよ。これからご家族に連絡します。」と言って部屋を出ていった。また戻ってきて、「ご家族に連絡しました。心配してましたよ」という言葉を確認した。まだ、意識が朦朧としている。とりあえず手術が終わったのだな、それにしてもあっという間だったなぁと思いながら、看護師がベットを移動し始め、私はICUに移動させられた。今何時かと看護師に質問してみると、夜9時だという。もうそろそろ消灯の時間だということで暗くなったICUに独り取り残された。手術が成功したのか失敗したのか分からない。たくさんの看護師が忙しそうに出入りしている。一人の若い看護師に聞いてみると「まだいつICUを出れるのか分からない」との返答が返ってきて、ますます怖くなってしまった。

 とにかく後頭部が痛い。そして、体位を時々看護師に変えてもらわなければ気持ち悪くなってしょうがない。そして何より尿道に入っているカテーテルがとても気持ちが悪い。両手には点滴や輸血などがなされている。おどろおどろしい体勢になりながら、疼く後頭部の痛みを看護師に訴え、痛み止めを点滴で時々入れてもらいながら、私はICUで当然眠ることもできないまま、朝を迎えることになった。

 8時半ごろになると、照明も入れられ、にわかに慌ただしくなってきた。医師や看護師の出入りの音が夜間よりも大きい。挨拶にこられた手術の女性の医師が傷口を確認しますといって頭に巻かれた包帯を取った。私は怖くなり少し呻いた。傷口はキレイだとのことだった。続いて、主治医が来て、今度は、聴力の検査の音を携帯から出して耳に当て、「聞こえますか?」と聞いた。私は恐る恐る「聞こえます」と返答した。それで私は手術で聴力を失うことはなかったのだということを知り、少しだけ安堵した。それから、9時になり、MRIの検査をするとのことで看護師が移動した。脳の異常はなかったとのことだったので、そこでも安堵することができた。

 様々な検査を看護師がして記録を取っている。どうやら発熱があるようだ。新型コロナウイルス感染症の疑いがあるということなので、そこでもPCR検査をさせられ、マスクをすることになった。こんな状態なのにコロナの予防のためにマスクをするのかと流石に辟易した。しばらくして、老練な看護師がやってきて身体を拭いてくれた。それがどうにも気持ちが悪い。どうせなら若い可愛い看護師に拭いてもらいたかったなぁと、夢想する。

 身体全身を拭き終わり、新しい入院着に着替えたところで、お昼の時間帯になってきた。様々な検査の結果、異常はないということだったので、ICUから元の部屋のベットに戻ることになった。なんとか立つこともできて、車椅子に移動して、看護師が、車椅子を押してくれる。身体がこれほど、衰弱しているのは生まれて初めての事だ。やっぱり、まだ手術は、思い止まった方が良かったのではないかというちょっとした後悔の念が頭をよぎる。でももうしてしまったものはしょうがない。これで完治するのであれば、やって良かったということになるが、実はICUに入っている間も、まだ目が少し開けづらい症状が出ていたので、完治したのかどうか不安になっていた。看護師に聞くと徐々になくなっていくだろうということだったのだが、不安は消えない。

 元の部屋のベットに帰り、後頭部の痛みなどがありながら、ふと机に置いてあるスマホに目をやった。メッセージやらの通知の表示がたくさん着ているのが目に入った。母親からも心配のLINEが来ている。返事を返さないといけないと思い、でも身体もふらふらな状態にも関わらず、私は、スマホをなんとか手に取って、ツイッターとフェイスブックに「手術無事終わりました」と一言メッセージを打ち込んだ。そのメッセージには100件近くのイイネが着いた。私の薄い交友歴からすると、SNSに100件近いイイネが着いたのは初めての事だったので、嬉しいというか、それなりにいろんな人が心配してくれていたのだなぁという不思議な感興に捉われた。

 身体も衰弱しているので、後頭部の痛みを時々訴えながら、看護師に痛み止めの薬を点滴で入れてもらったりしていると、時間はゆっくりと過ぎていく。頭の痛みや身体の衰弱感も徐々になくなっていき、尿道のカテーテルや点滴も徐々に外されていった。夕食はお粥になった。お粥がどうにも口に合わずに吐気を催しそうになって、ご飯が半分くらいしか食べられなかった。

 3日くらいはお粥と安静にする日々が続いた。徐々にだが、後頭部の痛みも小さくなっていき、体力も回復してきた。気がつけば、もう12月31日の大晦日になっていた。巷では、新型コロナウイルスの感染爆発がこの年末年始に起こり、またの緊急事態宣言が発令されたとのニュースを見、この時期に入院しておいたのは良かったのだと自分に言い聞かせたりした。

 年が明けた。SNSに「明けましておめでとうございます」とメッセージを書き込む。こんな状態でもSNSは欠かせないツールになっている自分も少しうんざりしたりするが、心の救いにもなっているのも確かだ。元日の朝食は、少しばかりのおせち料理が入っていてちょっと豪華に見える。まだ顔面痙攣と言われる症状が少しだが時々出るのが気になる。その症状が出たら、スマホの録画機能で、撮って置いてくださいと助手の医師に言われた。1日のうち夕方近くになると、手術前よりかは、強くはないが目が開けにくくなるのだ。せっかく手術という怖くて痛い思いもしたというのに、治らなかったりしたら・・・といった不安な気持ちを抱えながら、お正月をベットの中で過ごした。

 頭の傷口の縫針も外してもらったり、看護師がついてきてくれてシャワーも浴びれるようにもなった。

 新年が明けて、1週間くらいになるだろうか。無事に頭の痛みも小さくなってきたので、退院は間近ということになるだろう。退院の日がまだはっきりとしないのが少し不安でもあるが、最後のMRI検査を受けることになり、受けた結果がまだ、分からないというので少し不安な気分にさせらたが、主治医が来て、明日か明後日には退院できるだろうということをようやく言いにきてくれたので、急遽、明日の退院を希望し、受け入れられた。

 急遽な退院の知らせに嬉しい反面、一人でまた退院の手続きなどをしなければならないので、とても億劫である。入院治療費は後日、請求書が家に送付されるとのことだった。

 翌日、退院の準備を全て済ましてして、親しくさせてもらった看護師にも挨拶をして、病棟を出た。コロナ禍でもあるので、誰も面会もできず、退院も誰も迎えてくれる人がいないというのは本当にとても寂しい事だと、痛切に感じた。家に一人で帰ったら、それが余計に感じられる。一人暮らしの部屋に帰ったら、中では昨年の独りでのクリスマスパーティーの後片付けが全くできていない。まずはその片付けからはじめなければならず、部屋の掃除と後片付けをしながら、ちょっと切なくなって涙が出てきた。誰かパートナーをいい加減に見つけなければいけないなあとそんな時に痛切に感じてしまう。ようやく片付けが終わり、部屋でゆっくりとできる時間ができたので、退院後、ようやく熟睡することができた。

 これで、顔面痙攣の症状がなくなれば良かったのだが、残念ながら、目が開きづらい症状は数週間後、またぶり返し、一向に改善がなされず、2年経っても完治せず、現在に至るわけである。 

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