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母の突然の死

気持ちの整理のために、ノートに思いを綴ろうと思う。心に浮かんだ思いをただただ書いてみようと思う。その時その時に思ったことを言葉に残したら、母の死を乗り越えられるんじゃないかな。

母の死から3日目。
骨壺に納まった母の遺骨。死んでからあっという間に骨になるんだなぁと思った。

私が五歳の時に母は離婚。
子供は私一人。母と娘の二人家族だから、一般的な家庭の親子関係よりかなり仲は良かったと思う。
娘である私が言うのもあれやけど、母は本当に私が大好きだった。娘が大人になっても、どこでもハグをしてくる人だった。

母はリュウマチを45歳ぐらいに発症してから、ずっと痛みに耐えて、薬を飲み続けながらも、美容師として働き続けた。 それは、私に心配かけたくない思いよりも、自分の誇りのためだったと思う。
リュウマチになったら、大抵は痛みに堪えきれず、働かない人が多いらしい。だけど、母はそんな人生は選ばず、美容師を続ける覚悟を決め、働き続けた。美容師と言う仕事が好きだったし、何よりリュウマチに負けたく無かったんだと思う。

本当に母は我慢強くて、周りに気配りができる人で、自分のことより他人のことばかり気を使う人だった。そして、サプライズが好きで友達や家族を喜ばすのが好きだった。

亡くなった当日も母の幼馴染みが来てくれて、お通夜にも地元の友人が駆けつけてくれた。母の姿を見て、泣き崩れる人もいた。友人に恵まれて幸せで良かったと思った。

母は胸が痛いと言って自分で救急車を呼んだらしい。救急車が到着したときには意識はあったものの、病院へ向かう途中で心肺停止。病院でも蘇生治療しているが、心臓がもう動くことはないと判断した医者が、私に電話をかけてきた。


午前7時過ぎに携帯が鳴った。キャンプ場のキャビンの中で薪ストーブに火をつけている所だった。着信番号は見たことのない番号、電話に出ると男の人の声で消防署の者であることを伝えられた後に、母の娘であるか本人確認された。心臓の鼓動が早くなり、息苦しくて仕方無かった。
病院に母が運ばれたと言われた。詳しくは先生に代わると言われて先生が話し出した。心肺停止した状態で運ばれてきたので、蘇生を行ってるが心肺停止のままです。このまま、病院の治療方針で蘇生を続けることはできないと。そんな説明だった。 

言葉が出てこなかった。やっと出した言葉がもう無理なんですかの一言。なんか先生が色々話してたけど、要は心臓止まったら生き返らないんだと理解するのに少し時間がかかった。最後は分かりましたとようやく言えた。

電話を切ったあと、地元に住んでいる従兄に電話した。母がいる病院にすぐに行って欲しいと伝えるのに、言葉が出てこなくて、出てこなくて、泣きながらお母さんが死んじゃったよと言えた。

病院に着いたら、従兄からカバンを渡された。これ、おばちゃんのリュック。リュックを準備して持ってたみたいやでと。お母さんは、最後の最後まで諦めず頑張ってたんやなぁ。
寝ている母、もう目が覚めないだよね。冷たくなった母の顔を触り、もう話すこともできないんだと思うと悲しくて寂しくて、どうしようもなかった。

救急担当の先生から、恐らく急性心筋梗塞ですと死因を教えてくれた。急性って、何でやろ?何が原因だったんだろう。死んだ事実を変えることはできないけど、死因には納得できなかった。でも、もうどうすることもできないんだよね。

寂しさに明け暮れることはできないくらい、やることが沢山あることに驚いた。亡くなったその日の内に、葬儀場を決め、母を移動させ、葬儀の内容を具体的に決めなければならない。家族は私だけなので喪主も当然私になる。

お坊さん呼ぶのをやめて、母の好きな曲をかける音楽葬にすることにした。自分で服を作るのが最近の趣味だった母、だから最後の衣装は自分で作った服を着せることにした。明るく楽しい人だから、暗い葬儀は嫌なんじゃないかな。服装だって、いかにもみたいな服なんて着るのは嫌なんだと思う。

服を探しに母の家に向かった。
家の中は電気が付けっぱなし、布団には吐血の後が少し、リビングには薬が散在していた。リアルに頑張った母の姿が浮かんでくる。
私の小さい頃からの写真、成人式の写真、結婚式の写真、旅行に行った写真、孫の写真が壁一面に飾ってあるリビング、もう母がいない部屋の中で大声で泣いた。
親はいつかは死ぬとは思ってたけど、まさか今なんて想像すらしてなかった。今月誕生日だったお母さん。誕生日を迎えたら68歳だった。まだまだ生きてて欲しかった。孫が成人するまで生きてて欲しかった。
3日目前にLINEしたばかり、最後のトークがペイペイの還元方法についてって、無いわ。電話で話したら良かったと後悔してしまう。もしかしたら、何か体調が悪かったかも知れない、私に心配かけたくないから、言わなかっただけかもしれない。声を聞いたら異変に気付けたかもしれない。後悔ばかりが頭を過る。

母の衣装は手作りのワンピースに、オレンジ色のスカーフ、そしてキャメル色のハットに決めた。
お湯灌の後、髪を整え化粧をしてもらい、選んだ衣装を着せた。いつものお母さん、ただ寝ているだけで、どうしたん?って声が聞こえてきそう。
母の友人たちは、おっいつもと同じやんか!エエ顔で笑ってるやん!と言ってもらえた。

母がいつもカラオケで歌ってた曲を教えてもらった。母はいつもダンスしながら、歌ってたらしい。家族の前でも友人の前でも同じように、盛り上げ役だったらしく、口を揃えて皆寂しくなると言ってた。
母が亡くなった日、ちょうどその日仲良し三人組で晩御飯を食べる予定だったと聞いた。幼馴染みも前日に電話して、何を食べるか話しをしたら良かったと後悔してた。
別の友人も先月一緒にご飯食べてん、次は新年会やなと話ししたんやと。元気やったのに。
また、別の友人はLINEで最近どう?みたいに話ししてたんやと。こまめに連絡してた母だけに、皆が異変に気付けなかったことに後悔している感じだった。皆に思われてた母を知り嬉しかった。

火葬場。骨だけになったお母さん。
親族で骨壺に骨を入れていく作業は、意外にも楽しい時間になった。リュウマチで変形した両ひざに金属のプレートを入れていた母。
私がどうしようと言ったら、従兄がそれは入れたらアカンやろ!ようやく天国で自由に歩け回れるのに、そんなん入れたら何で入れるんよって怒られるで!と言って皆を笑わした。
骨壺に収まらない大きな骨を私に渡して、ちょっと砕いてや、俺はできへんけど、娘ならできるやろーと。なかなか固くて割れへんかったら、なかなかおばあちゃんもしぶといなと言って皆を笑わしてくれた。
ゆっくり骨を選んでたら、あっという間に骨壺が一杯になってるから、入れるの早いわ!と言ったら、ゴメンゴメン、七割足だけを入れてもうたと笑いながら従兄は言った。
なんやかんやと、皆で話しながら、骨壺に骨を納まった。

骨壺を抱えてると、骨壺の温かさが体に伝わった。これから、母を思い出しては泣いたりするやろうけど、私には娘三人と夫がいる。母が私を全身全霊で愛してくれたように、私も家族を全身全霊で愛していきたいと思う。

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