メモ #005 罪の重さと必要悪

1. 被害者サイドの喪失感

胸が苦しくなるけど考えてみた。

普通のひとのごくごく自然な感覚がある。他人が原因で近しい人の命が失われたとき、そこにあるのは失ったという事実だ。原因は交通事故やら医療ミスやら色々あると思う。でも理由がなんであったとしても結果は同じ。だから遺族の喪失感と憎しみが、別の原因の場合と少しも変わらなくても不思議ではない。自分で想像したときにそんな気がした。

プロでもないし刑法をちゃんと調べていないので感覚のはなしをする。

2. 交通事故の犠牲

運転ができないひと、あるいはリスクを考えると運転しないという選択をするひとがいる。しかしいざ交通事故に巻き込まれたとき、犠牲になるのはそういった歩行者の側だ。理不尽な気がする。さらに刑罰が比較的に軽いものになるなら納得できたもんじゃない。

では一方で運転する側ならどうだろう。重い刑罰が待っているのであれば、恐ろしくて運転できたもんじゃない。

3.医療事故の犠牲

医療ミスではどうだ?多かれ少なかれ患者サイドからは、医療者サイドに同じだけの罪を求める。それが軽くなるなら理不尽に思うのも自然なこと。

一方で、医療者サイドはどうだ?人間がやる以上ミスがゼロなんてことはあり得ない。重い刑罰が待っているのなら萎縮してしまうし。思い切った治療もできない。いわば感情を切り離すことでできる冷静な判断も、できなくなるかもしれない。

産婦人科ではそれが顕著だと記憶している。いっとき有罪判決が下ったとき医療界がざわついた。そもそも出産は極めて危険を伴うものだから、命にかかわるのは必然。でも一般感覚では、おめでたムードから一気に地獄に落とされるのだから喪失感は想像を絶する。そんなもろもろの事情があるなかでの有罪判決なのだから、医療者サイドも委縮するのは当然。産婦人科を志望する若い医師が減ったらしいことを聞いた。

4. 刑罰の軽重で社会がまわる

交通事故や医療ミスなどもろもろをかんがえたとき、刑罰の重い軽いは避けられないと思う。加害者になるのであれば誰もやりたがらない。社会にとってそれは困る。

一歩引いて考えてみたい。被害者サイドがつねに損だけを食っているという思い込みは理性を欠いているかもしれない。「自動車は走る凶器なのだから無くなればいい」とは言えない。運送があるからスーパーやコンビニに商品が補充される。燃料やみんなが使っている日用品の原料も自動車で運ばれる。医療資源も自動車があるからこそのこと。

文明社会で道路が整備されているのも、つまりはそういうこと。

医療も多かれ少なかれ、類似の構造がある。

5. 文明社会で無くすことができないこと

普通のひとがそれを受け入れられないなら、山奥で電気もない自給自足の生活をするしかない。

普通のひとも危険だけでなく恩恵をうけている。それは見通して理解しておくべきだと思う。文明が進んで社会の中で生きているのだから。

免許や高度な資格で社会を回して貢献するひとを欠くことはできないから、社会のなかで罪の軽重を設けるのは仕方がない。

少ないながらも「一定数の人の命が失われること」は、必要悪だと思う。

以上でひとしきり、理性的にかんがえてみた。

僕はそれでも、自分事になったとしたら、間違いなく感情的になるとおもう。

おわり//

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