David Byrne's American Utopia  「アメリカン・ユートピア」 デヴィッド・バーン

*以下は2021年に他で公開したものです。

随分前になるが "David Byrne's American Utopia "の試写に出かけた。そろそろ公開も近そうなので覚書以下。
バーンが"American Utopia"なるミュージカルを上演するという話は、2019年、舞台が始まる折にニュースとして知り、彼の資質からして、必然性のあるアイデアのように思い、日本に来ることがあれば是非観てみたいと思っていた。
その後コロナ騒動で暫く忘れていたのだが、なんとスパイク・リー監督で映画化されたのだと試写会の案内をもらって知った次第。試写室ではなく渋谷のシネクイントでの試写が組まれていたので楽しみに出かけたのが三月の終わりごろだったと思う。
トーキング・ヘッズに関しては最初の来日は見逃していて、次の81年の公演を観ている。なんともう40年も前だ。この時は「リメイン・イン・ライト」のツアーで、エイドリアン・ブリューとバーニー・ウォレルが参加しおり、今思い返すと一番のタイミングだったと思う。なおかつ、バーンの例のダンス・パフォーマンスがちょうど始まったタイミングであった。
映画を観て、これを書く気になったところで、似た時期のライブを探したのだが、81年のライブはYOUTUBEにはなく、近い時期で80年の12月のドルトムントでのライブ(https://www.youtube.com/watch?v=GQo1YK3I0BY)を見つけて観たが、バーンの例のダンス・パフォーマンスが本格化していない。僕が観たのは81年の2月で、このツアーの一環だったのだが、記憶の中ではバーンのパフォーマンスが既にかなりフィーチャーされ、エイドリアン・ブリューのギターと共に記憶に焼き付いている。なにしろバーンのパフォーマンスを一緒に行った友人たちとその場で真似て笑っていた記憶がある。だが、どうもビデオを観るに80年の12月にはまだ練れていなかった様子で、僕が観たタイミングがライブ・パフォーマンスとしては初だったようなのである。
と、昔話が長くなったが、この「リメイン・イン・ライト」ツアー以降ブリューはメンバーからハズレ"Stop Making Sence"にも出てこないわけであるから、いろいろな意味で2回目の来日公演はメンバー的にもパフォーマンス的にも最強だった..と、しばし感慨に浸った次第だ。
手持ちのレコードを引っ張り出してみたところ、あったのは2枚目の「モア・ソングス」から「スピーキング・イン・タンズ」までの4枚で、「スピーキング・イン・タンズ」は後に見つけて買ったラウシェンヴァーグのパッケージのもの。リアル・タイムで買ったのは「リメイ・イン・ライト」までで、熱心に聴いていたのは実質そこまでだった。
とは言っても、他に「ストップ・メイキング・センス」のLDと"Ilé Aiyé "のLD ボックス・セット(これはレア)を持っていて、この発売が89年であるから、そこまではなんとなくフォローしていたということだ。その後の"Luaka Bop"でのラテン物等の活動は残念ながらフォローしていない。
であるから、ぼくとしても30年ぶりにバーンの新作に触れたことになったわけである。
この間こちらの趣味はあっちこっちに拡散変遷したわけであるが、表現者であるバーンの音楽はある一定のレンジに収まっている。ラテンものに入れ込んだ経緯もあるわけだから聴いているものは随分幅広く聴いているのだろうし、それが表現の細部に現れているのかもしれない、しかし、今回このフィルムに現れたバーンのパフォーマンスは30年ぶりのファンにそのブランクを意識させる類のものではなかった。
「30年ぶりに観たら全くわけのわからない表現になっていた...」などということにはならない、ある同一性を保持したものであったわけである。では、ワンパターンでつまらなかったのか?というとそのようなことは一切ない。どちらかというと、限定されたレンジのスタイルで実に色々なことが表現できてしまうものであることを見せつけられたというのが正直な感想なのである。
当初この企画を聞いた時に例えばフィリップ・グラスの「アインシュタイン・オン・ザ・ビーチ」のようなものを想像し、全曲書き下ろしの新作であるものと思っていた。映画を実際に観るまで、そう思っていた。始まって暫くはその路線であったので、そのまま観ていたのだが、どうも観客がいるらしいことに気付き、さらに曲間にバーンの長めのMCが入る、昔のライブでベラベラしゃべった記憶はなかったので、意外な気持ちで観ていたが、これがオーディエンスの存在を前提にしたライブ・パフォーマンスであることをまあ、だいたい始まって20分後ぐらいで、やっと理解し出したのだと思う。
そこからは、昔の曲も交えてのライブ・パフォーマンスとして観たわけであるが、昔の曲も含め「アメリカン・ユートピア」というコンセプトの内に上手く構成し直された感があり、上述の長めのMCも含め、テーマに寄り添ったものになっていたと思う。と、書くと、どうもクールな感じだが、ぼくの感じた熱量は大変なもので、もちろん10代の頃の様々な個人的な記憶の反映がないわけではないし、なんといっても40年ぶりのナツメロ大会といえばそうなのであるが、それが今の表現として身近に感じられたわけであるから、ディビド・バーンはやはり世代を代表する素晴らしいアーティストなのである。
スパイク・リーとどの程度この構成やMCの内容に関して相談したのか?その辺りはわからないが、スパイク・リーらしい演出が途中にみられ、バーンのジェームス・ボールドウィンへの言及もあり、この部分が一つわかり易い問題提起になっていたのは明らかであったと思う。またコンサート後のフッテージは必要だったか?は意見の分かれるところと思ったが、個人的にはこれで初めてバーンの自転車趣味を知り、彼の書いた自転車物の本を読んでみようと思ったわけであるから、それなりに意味があったことになる。
と、とりとめがなくなってしまったが、音楽映画として優れた一本で、10代、20代の日本の音楽ファンがもし観たならばどういう感想になるのか?是非知りたいところである。


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