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おかえり、サッカー

日本でプレーをしていた頃は、所属クラブから発信をするインタビュー動画や、新聞社さんやテレビ局の方に取材をしていただいて自分の言葉が世の中に発信されていましたが、'海外に拠点を移す' + '代表から落ちる'という環境に身を置くと、一気に発信する機会がゼロになりました。
恐らく、皆さんもお気付きかと思います。


何だか心が楽になりました。


日本で取材を受けている頃は、自分の近くで応援してくれているファン/サポーターさんへの思いやスポンサーさんへの思い、またはクラブや代表が背負うものへのメッセージなど、'周りから見て、そうであって欲しい姿'を意識したコメントをしていました。

と言うより、その当時はそれが自分の本心で思っていた事だったけれど、日本から出てみると、そういった自分の本心もあくまで日本の'べき論'に固められて作られたものなんだなと鮮明に感じました。

そしてその自分の本心から立てられたはずの自分の目標は、いつしか自分のものではなく、世間がコントロールしているものになっていました。

(ちなみに、連載を書かせてもらっている「フットボール批評」さん [issue35から連載スタート] ではその'べき論'を壊して再構築するというテーマで書かせてもらっています)


取材などの機会が減ると=日本の'べき論'と向き合う必要が無くなってくると、より自分自身と向き合えるようになった気がします。

スウェーデンの寒くて暗い雪が降る道を、滑らないように滑らないようにと気を付けながら漕ぐ自転車で「なぜ今自分はこんな中トレーニングに向かうのだろうか」と考えてしまうのです(笑)

そこから巡らせていく思考は、日本の'べき論'にハマる事なく、寒くて暗くて何もない時空間にハメられて巡らされていきます。
いわゆる精神と時の部屋っていうやつです。いや、嘘です。分からないです。ドラゴンボール見たことないです。

ちなみに、私がスウェーデンで生活する上では、日本のような'べき論'は存在しません。
あったとしたら、「他人のパーソナルスペースに勝手に入っていくべきではない」とか、「その人が変えられないものに対して良くも悪くもコメントするべきではない」とか、そういうものです。

そんな中で自分と向きあったり、同じような環境の中でサッカーをしているチームメイトと話したりしていると、かつて自分のコントロールの中にあったはずの、気付かぬうちに世間がコントロールをしていた自分の目標が、姿、形を変えて、自分の手の中に戻って来てくれる感覚がありました。

どういう状態で自分がサッカーをしていると楽しいのか、鮮明になって来ました。

そうなると、寒くて暗い雪が降る道の中を、滑らないように滑らないようにと気を付けながら漕ぐ自転車(二度目)でも、例えキツいトレーニングが待っていたとしても「今日もトレーニングが楽しみだな」とトレーニングに向かえます。

26歳になって、色々な環境でサッカーをしてきて今なお、オフの日になると「早くボールが蹴りたい」と子どもの頃と同じ気持ちになれるのは、その当時の誰のモノでも無かった自分だけのサッカーが、今も変わらず自分の中にある(戻って来た)からだなと思います。

もちろん、サッカーは一人では出来ないので、感謝している人はたくさんいるし、これからもその人たちにはお世話になるつもりです。
(おいおい、結局日本の'べき論'を気にして書いちゃってるじゃんか)

今年は、今年は、と毎年言っている気がしますが、これくらいの重すぎない量でnoteの更新頻度も上げていきたいと思っています。

頑張ります。

2023年もよろしくお願いします。


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