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老いたときのことを考える①

30代後半。去年から今年にかけて一気に身体的な変化を感じる。おなか回りや、二の腕。娘とお風呂に入っていると、自分が小さかった時に母親とお風呂に入っていたときのことが、ふと頭をよぎる。その頃の私は、母のおなかを見て、「なんで、しわ(妊娠線)があるのか、ぷよぷよなのか」と、自分とは違うその姿を見ていたんだけれど(お母さんごめん!)今、娘たちは私を見ておんなじ風に頭のなかで思っているのかもしれない。

通っている美容院で、20代に入りたての女の子と話していて、偶然にもその子のお友達のことを私が知っているとわかった時、「その子の母親つながりならまだしも、直接知っているなんてすごいですね~~!」というような発言をされたときに感じたショック!!!

そう、何が言いたいかというと、当たり前だけど、「老い」が私にも確実に現実味を帯びて感じられるようになった今日この頃。おなか回りがぷよっとしてくるくらいなら(て、どうにかしたいけど)まだしも、身体的に日常生活が送れなくなってしまうくらいのことになったらどうしよう。最近読んだ「医療者が語る答えなき世界 磯野真穂(ちくま新書)」に、こんなエピソードが出てきた。

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脳梗塞で認知機能が低下、排せつも介助がないと厳しいおじいさん。妻は東南アジアに住む子どもと住んでいて不在。病院や関係者から、施設への入所を強く勧められたが、かたくなに拒否。担当のソーシャルワーカーだけは、おじいさんの意志と動作の様子から「自宅復帰は絶対不可能」という支援者の共通認識をくつがえし、結果おじいさんは帰れることになった。

あるときソーシャルワーカーがおじいさんの家を訪ねると、おぼつかない足どりで、電気ストーブの上に食パンをのせ焼いていた。「おいしそうな匂いがしますね」と声をかけると「いつもこうしてきたんです」とおじいさんは答えた。ソーシャルワーカーは、こう思った。「相手のペースでやってもらう、つまり自分のペースとは相いれないようなものを他者からの介護は含んでいますよね。どんなに優れた人であってもやはり他者ですから、一から十まで自分のすべてにマッチングするわけじゃない。だからそこは自分自身が100%解放される状態ではないわけです。でも浩司さん(おじいさん)は自分が心地よいものを、自分の手で手に取り、自分のやりたいやり方で、自分のペースでやっている。その空間すべてが、浩司さん(おじいさん)そのものなんです。その時私は学びましたね。「帰ろう」っていったのは、このためやったって。」

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わたしが脳梗塞で倒れたら、ぼけてしまったら、毎朝ご飯を食べた後に旦那さんと飲むコーヒーが飲めなくなるんだろうか。結婚したときに奮発して買ったお鍋で料理ができなくなるんだろうか。図書館で予約した本を読めなくなるんだろうか。周りの人に、「安全を考えたら、こっちのほうが絶対にあなたのためよ!」と言われて、そのすべてが奪われるとしたら、本当に悲しいと思う。いつまでも、『何気ない日常』が過ごせるまま死ねたらいい。

このことに関して、本の著者 磯野さんの分析が「うーん、なるほど!」とうなるかんじなのですが、長くなるのでいったん終了。②に続く。





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