見出し画像

老いたときのことを考える②

排せつや日常生活に困難があっても、施設入居をかたくなにこばむおじいさんが、自宅での生活で「いつものように、電気ストーブでパンを焼き、穏やかな表情を見せる」エピソードについて、『医療者が語る答えなき世界(ちくま新書)』の著者の磯野さんはこう分析している。

*******************

私たちが住まう現代社会の特徴の一つは、人・時間・空間の切り離しが、技術とシステムによって容易になったことである。それは言い換えると、「この人がいまここにいる必要は必ずしもない」という環境を作り出すことで、人の交換がしやすくなったということだ。…(中略)…このシステムは、医療現場でも同じである。たとえば病棟稼働率とは、ベッドがどのくらい埋まっているかを示す数字であり、稼働率は高いほど望ましい。その視点からみれば入院しているのは、浜野でも、宮澤でも、後藤でも誰でもよい。

しかし一方で、私たちは住んでいる場所や、それまで使ってきたモノ、そこで過ごしてきた時間に様々な意味を付与し、その意味とともに暮らす生き物でもある。亡くなった両親の実家を取り壊す時、それが単なるモノと場所の消滅以上の意味を持ち、私たちに複雑な感情を抱かせるのは、その空間に両親とともに生きてきた時間が流れているからである。そこに一切の交換可能なものはなく、時間の流れのなかで、人も、家も、モノも不可分となり、それらがそこに住んでいた人々の人生の軌跡を作り上げている。私たちの人生は、身体だけでできているわけではない。自分の身体が住みこんできた場所、自分の身体がなじんできたモノが私たちの生を形づくっており、その事実は、時間と空間と人の徹底的な切り離しが可能になった現代でも変わらないのだ。

***************************

ふとした瞬間に、自分が交換可能な誰かだと気が付いて愕然としてしまう現代だからこそ、ぜったいに交換可能にならない家族との思い出のつまった家、その日常を大切に思う。それって本当にそうだと思う。老いてきて、死ぬまでも、自分らしい日常を失わずに医療や周りのひとのお世話になりながら生きていきたい。専門家ではないから、その難しさはわからないけど、これからどんどん老いていくひとりとして、そう思います。

余談だけど、最近、講演で聞いた哲学者の内山節さんの話に、「自分らしい価値を持って生きるためにヨーロッパでは都会から田舎へとローカリズムの動きが顕著」とあった。リノベーションで「ガイアの夜明け」にも特集される大島芳彦さんの講演では「これまでの時代は豊かさを追い求めるために”あなたでなくても、ここでなくても、いまでなくても”を得意にしてきた。リノベーションで大事なのはその真逆で”あなたでなくては、ここでなくては、いまでなくては”です」と言っていた。そして上に紹介した本でも同じようなことが書いてあった。

交換可能な誰かじゃなくなるために。これからどんどん世の中変わっていくことが間違いない気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?