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今日も生きている奇跡



0.前置きすら長い

まず先に言っておかなくてはいけないことがある。
でないと、中には「裏切られた!」と思う方が居てもおかしくないことだから。

僕は清涼院流水先生のファンではない。
より精確に表現するのであれば、ファンを名乗れるレベルではない。
清涼院流水先生の名は知っていた。
父親と真ん中の兄が本好きなのもあって、僕も少年時代には活字をよく読んでいたからだ。
主にラノベではあったが、別に大衆文学や純文学じゃなくたって活字に変わりはないのだから、そこは大した問題じゃない。

そんなわけで名前は知っていたが、僕が今この現在までに読んだ清涼院流水先生の作品は、
結果的にこれから語る【キャラねっと 愛$探偵の事件簿】及び【みすてりあるキャラねっと】だけである。

だから、僕は先生のファンを名乗ってはいけないと思っている。
とは言え何をもってファンとするかなど詰まるところ個人の自由なのだから、例え1作品しか触れたことがなかろうと、自分がファンだと思ってるのならファンなのかもしれない。
それに、これから話す───僕や僕以外の同志たちの行動を知れば、「充分ファンだろ、いやむしろファン以上の何かだよ」と思う方もいるだろう。

なので誤解のないように述べておくと、あくまでも僕自身が大っぴらに「僕は清涼院流水先生のファンなんです」と言うつもりはないということ。
さらに言うと、ファンが故の行動から始まった物語をするつもりではないということだ。

また、当日の想い出の文の最後にも触れているが、先生とのお話の場にも、自らの意思で参加はしなかった。
話したいことはたくさんあったと思う。
僕も18年という年月を過ごして今があるのは変わらない。
だがその18年、だれかに話を出来るほど自慢できるような人生を歩んではこなかったことと、先に述べた通り自分自身がファンとして面と向かえる立場ではなかったことが理由で、お話したい気持ちは抑え、その場を後にした。

そのことは少し後悔している気もする。
だからこそこの文章が、独り言であり先生との対話であればそれで。
また同志のだれかが目を通してくれるやもしれないこの場所に、自らの拙い18年の想いを残して、自分自身のゲーム終了の狼煙となり得るのだと思って記す。

では、そんな至極どうでも良いことを前置きとして、長い長い話を始めていこう。

1.遡ること18年

ことの始まりは18年も過去に遡る。
これが起点、原点。すべての始まりだ。

18年前――2004年3月25日に、一冊の本が刊行された。
それが【キャラねっと 愛$探偵の事件簿】だ。
更にその2年前、2002年に【みすてりあるキャラねっと】という本が刊行されており、その作品に2つの話が加えられた3部作の形をとった作品となっている。

詳しい内容はここでは省くとしよう。
今回の話においては、作品の中身はそこまで重要ではない。
何を隠そう――僕自身もかなり曖昧な記憶になっており、仮にこの本の内容を全部教えてくれと頼まれても残念ながらお役には立てない。
なにせ18年も前のことだ。
その時読んで以来、一度も"全部"を読み返した覚えはない。
何を偉そうにと思っただろう。
その通りである。

とはいえ勿論、結末とかあらすじといったレベルでは記憶している。
つまり、何も問題はないのだ。
もっと言えば、このゲームの参加資格に「物語を記憶していること」というものはない。
だから、物語の内容はここでは語らない。
語る必要がない。
この文章が、同志以外の目に触れるのかはわからないが、もしこのゲームに参加しなかった・できなかった今知ったという方がいるのなら、是非ご自身で読んでみてほしい。そしてゲームに参加した気分を味わってみてほしい。

「18年前」
このワードは何度使用するかわからないが、18年前は18年前なのだから仕方ない。
「2004年」
「平成16年」
やはり一番時の重さを感じられるのは「18年前」じゃなかろうか。
また、僕にとっても18年という年数は非常にしっくりくる数字なのである。
何故ならば、18年前の僕は18歳だった。
18歳の18年後が36歳。
36歳の18年前が18歳。
気持ちいいだろう?

18歳というと、今でも一番記憶に深く刻み込まれているのが、初めてR18のゲームを買ったことだったりする。

――悪いが大真面目だ。

当時発売され、初めて買ったR18のゲーム――エロゲ。
何を隠そう、Fate/StayNight (初回限定版)だった。
もちろん、今でもちゃんと持っている。
これを言っては元も子もないのだが、意外と18年前の私物など探さずともいくらでもあるものなのだ。
と同時に、気づけば失っているものも多々あるのが現実だ。
それは物でなく、もっとかけがえのない存在だったり。
そういったもののほうこそが、18年という年月に耐えることが難しい。

その当時は僕は弓道部に籍を置く高校生だった。
もともと中学時代からラノベが好きだった自分は、高校に入っても変わらず、また部活の友人も似たようなタイプの人間だったので、よく本屋に行っては買いアニメイトに行っては買っていた。当然ながらキャラねっともその中のひとつである。
今思えば、友人はこのゲームに参加していたのだろうか?

Fateもそのつながりで好きになった作品だった。その頃は今(もなのかよ)よりも一層いわゆる厨二病だったので、ダークな世界観がすこぶる好みだった。那須きのこ繋がりで空の境界が講談社ノベルスから刊行されたのも2004年のことだ。
Fate/StayNightのCD-ROM版が発売したのも2004年。
1月30日だった。
余談だが僕は1月5日が誕生日なので、正当に買う権利はあった。

発売日に買いに行ったかはわからないが、2004年1月30日は平日なので、
おそらく翌日に買いに行ったんじゃないかと思う。
それまで一度もエロゲは買ったことがなかった。
今だったらネットで簡単に手に入るが、18歳の僕にはおそらくPCネット環境がなかったのかもしれない。携帯は持っていたが支払いツールがなかったか、或いは実家に物が届くことの危険性を考慮したのかもしれない。
自分で書いていてひどくどうでもいいことだとわかってはいる。
少し調べれば、ネットショッピングは2004年でも充分に発達しているようだから、僕が敢えて店舗で買うことにした理由は――。

店舗に行ったら後は素知らぬ顔でレジまで持っていけばミッションコンプリートだ。
年齢確認されたらとかそこまで頭は回っていなかっただろう。
18歳になっているんだから堂々としていればいい。
ただえっちなものを買うということを他人に知られるのだけは恥ずかしく思っていたに違いない。
だから、余計なことは考える必要はなかった。否、考える余裕はなかった。

そんな思いを裏腹に、現実は思わぬ事態だった。
初回限定版ということもあってか、なんとガラスケースに入っていたのだ。
Fateを買ったことを色濃く覚えているというよりは、その時のガラスケースに入ったFateを見たその光景が、何故か今でも本当に脳裏に焼き付いて離れないでいる。
それだけ、自分史上一大イベントだったんだろうと思う。
本当にしょうもない。

もう少しまともな想い出を語ろう。
前述した通り、僕は弓道部に在籍していた。
1番上の兄がやっていたこともあってその影響だった。
中学は陸上部で中〜長距離を走っていたが、特段それを続けようと思わなかったし、何か他にやりたいこともなかった。
今思えば、自分の意志というものが欠如してたのかもしれない。
何の為に高校に行って、何をしに高校に行っていたのか。
小学6年で初恋の人と良い感じになるも、ガキンチョ特有の照れ隠しもあり何故か好意が伝わると自然と距離は離れていき、中学3年間一度も話をせず、高校進学でようやくその辛さから解放されるかと思いきや、何の因果か進学先も同じだという非常に苦い6年間となったことも今では懐かしい。
大人になった今ならばお互いあの時どう思っていたかくらいはお話しできそうなものだけど、そんな機会はないことくらい知っている。失恋なら35年目でも経験した。
過去の恋愛など振り返っても良いことなんてそんなにない。

と、そんな傍から見たらすごく生きづらそうな高校生活に思えるかもしれないが僕は僕でとても楽しかったと思っている。
今思えばほとんど部活に時間を割いていた気がするのだ。
これを述べると身バレも甚だしいが、僕が在籍していた頃の弓道部は弓道場のない弓道部だった。

では、どこで弓道をしていたのか。
他の一般生徒は入れない屋上だ。

使い古された畳を背にして的を立てかける。更に後ろには矢が後方に飛んでいくのを防ぐネットもあったが、ほかは広がる空間でしかなかった。
ただ記憶の限りでは矢が落下したことはなかったように思うから意外と安全なのかもしれない。
ボールは落ちていったが。

そんな弓道でも順風満帆で終わったわけではなく、3年間の中で最後の3年目が1番辛く厳しい部活動となった。スランプが原因だった。
結局、そのスランプは引退卒業するまで完全には治らなかった。
技術的な問題よりも精神的な問題で起きたことだったので、自分に打ち勝つしか脱却する術はなかったのだが、僕にはそれが出来なかった。弱かったのだ。
ただ悔しい気持ちを抱いていたのも事実で、他校で行う練習試合の練習中に泣いたことは今でも色濃く記憶に残っている。
治したい気持ちといつまでも治らない恥ずかしさと、いろいろな感情が一気に噴き出した瞬間だった。
後にも先にも、悔しさで泣いたことなんてその時だけなのかもしれない。

それでも克服には至らず、日に日に的前に立つことが怖くなっていって気付けば的に射つ練習ではなく、藁を前にしてやるフォーム練習である巻藁ばかりやっていた。
それを見抜いていた顧問は、僕達の引退と同時に転勤する際に一人一人にくれた手紙で、僕にはこんな言葉を残してくれた。

「為せば成る為さねば成らぬ、何事も。為さぬは人の成らぬなりけり」

上杉鷹山の歌だった。

個人的な大人への階段を登ったり、部活動を通して自分自身との戦いに敗れたりと、18歳である僕はそれなりに人並みに青春していたらしい。
後述するが、ここまでの学生生活が1番まともに真面目に生きてきたのだと思う。
今回のゲームとは何ら関係はなく偶然ではあるものの、この18歳が僕の人生の分岐点の一つだったんだろう。

2.何故ゲームに参加したのか

ゲームの開始年である18年前が如何に僕にとって濃い年だったかは前述した通りだが、では実際問題何故このゲームに参加しようと思ったのか。
正直なところ、特別深い意味はないように記憶している。
面白半分と言ってしまえばそれまでだし、冒頭で述べたようにファンだからというわけでもない。
ただあの時ザ・スニーカーのあの数ページを読んだ自分に、少なからず「試してみよう」という気持ちだけはあったのは確かだ。
しかし本当にそれくらいなもので、失礼な話だが一度読破した本はよっぽど好きでもない限り特に小説に関しては読み返すことはなかったから、ただ捨てたり売ったりしなければいいんだと考えていた。

後は如何に18年後の当日に忘れていないか。
ここで大事なのは18年の間常に覚えておく必要はなく、極端な話前日なり当日なりに思い出せさえすれば構わないということ。
実際、僕は――というよりかは恐らくほとんどの人は、常日頃から意識して覚えておこうなんて思ってもいなかっただろう。
他の誰かにこのゲームの趣旨がバレること・話すことはルール上できなかったので、尚更覚えておく必要がないわけだ。
人はダメと言われるとやってしまいたくなる生き物だから。

しかし、僕がこのゲームのことを思い出すタイミングは意外にも18年の内かなりの回数があった。
主な理由は引越しだった。

実のところ、この18年で7回も住む地を転々としている。単純計算で2.5年に1回。これは非常に多いと思う。引越し貧乏も甚だしい。
その引越しの度に荷物の整理を余儀なくされるのだから、金庫にでも保管して開けないでいる以外では、初版本もザ・スニーカーも確実に目に入り触れる必要があったわけだ。
嫌でも「ああ、そういえば…」となっていた。
そして「そういえば…」と共に「あと何年か…」という気持ちも新たに芽生えていた。

7回の転居の中で1番遠距離を移動したところで言えば、関東から四国までが圧倒的だった。
単身じゃない居住も2回あった。
その時も実家に置いておくというようなことはせずに、常に私物として持っていっていた。

読んでもらえればわかる通り、これだけ思い出すことが多いと、当初の「保管しておけばいいだろう」という簡単な気持ちは本当に最初だけなもので、いつしか確固たる自分の意志で、初版本とザ・スニーカーを護り続けていることに気付くのだ。

それはさながらガーディアンだ。

初めこそ面白半分で参加したと言えるこのゲームも、年を追うごとに明確に。
「何としてもクリアしてみせる」という気概が見えてきていた。

3.闇を彷徨う

話変わって、19歳から22歳ごろまでの間。僕の中での暗黒期があった。
ネットゲームにどハマりして他の何もかもが手につかなくなった時期だった。
現実がよっぽど嫌だったのか、ゲームが楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。ゲームをしている間だけが生きがいだった。
今でこそゲームもお金がものを言う時代になったが、当時はプレイ時間がものを言う時代だった。
かけた時間を考えれば引退なんておいそれとできないのだ。
寝ずに朝までやる生活。起きれず行かなくなる大学。

後悔してもしきれない、色々なものを失い続けた時期だったが、皮肉なことに得たものもあっただけに――また自分が歩んできた道であることは変えられないだけに、こうして戒めとして記しもするし決して忘れることはない。

しかし、あれだけハマっていたものも仕事をするようになるとやる時間がなくなっていった。本当にダメな人間は仕事もしないでやるのかもしれないが、僕はそこまでは落ちぶれていなかったようだ。
五十歩百歩だが。
引退したきっかけは、一緒にプレイしていた周りの人達が日に日にいなくなっていったことが大きな要因だった。
傍から見ればそれが当たり前であり、僕もその一人になっただけに過ぎない。
皆、多くの人間はゲームだけしてる人生をいつまでも過ごすわけにはいかないのだ。

とは言え、今でもこのゲームからの知り合い――友人と言って差し支えない人は何人かいるが、その存在は本当に大切にしたいと思っている。
自分より先に辞めて居なくなってしまった人達も、この世界のどこかで生活しているんだろうと思うが、そうも言えないだけの出来事も起きている。

事故
病気
そして自然災害。

流水先生も言っていたが、18年も時間が過ぎれば命を落とす人もたくさんいる。

ネトゲの仲間だけじゃない。
学生時代の友人――友人でなくても同窓生、先生がた。バイト先の先輩後輩、職場の上司。
濃くも薄くも自分の周りにはたくさんの人間がいた。誰しも独りぼっちでは生きていない。

幸いなことに誰か亡くなったということは聞いたことはないが、きっとそんなことはないだろうと思う。知らないだけだ。
何より1番身近な存在が亡くなってしまったのだから。他の大多数が例外だなんて有り得ない。

4.母親の死

今思えば、あれだけ充実した学生生活で得た友人もことごとく疎遠になり、繋がりがあるのは忌々しくもあるネトゲからの友人くらいなものだった。
自分自身で望んで関係性を絶ってきた体もあるが、ほとんどは自然とそうなっていくさだめのようにも思う。
同窓会も一度も行われていないか呼ばれていない。
呼ばれても行かなかっただろうが。

ふと思う。
当時から今日に至るまで一度も会うことがなく、今後二度と会わないのであれば、それはもう存在しないのと同じじゃないだろうか。
確かにこの世界のどこかに存在はしているのだろうが、僕の世界には存在していない。
いつだって自分の世界なんてものはそんなに広いものじゃない。
せいぜい目の前に広がる風景と、親しい友人――そして家族くらいなものなのだ。
だから僕が僕たりえる為には誰かの世界にも存在しなければいけない。
家族は無条件で僕を存在させてくれる。
世界の住人にさせてくれる。

そんな大事な家族である母親が若くして亡くなった。まだ50代だった。
元々身体の調子は良くなかったけれど、自分の親が亡くなるなんてその時は信じられなかった。
愛犬が亡くなった時も死に目に会えなかったが、母親の時も同じだった。

僕は三人兄弟の末っ子で、1番出来損ないだったから、本当に迷惑ばかりかけていた。
親孝行の何たるかもわからずに、ことあるごとにひどい仕打ちをしてきたように思う。
そのことは後悔もしているが、またそうなるべくしてなった節もあるなと、こうして冷静に考えると当時の自分の心境がわかってくる。
両親の仲が悪いのがとにかく嫌だったんだ。
見たくなかった。
だから反発した?そうかもしれない。
それだけが理由ではないが、今でもあの時の嫌だった気持ちは変わらない。
僕自身、結婚に良いイメージがないのが正にその弊害だとわかっている。
夫婦としての両親は見てられなかったが、母親は母親を全うしていた。
失ってからわかる大切さというのは正にこういうことだ。
大切さだけじゃない。
全てのことを、人は誰かを失ったり何かを失った時に考えさせられ思い知らされるのだ。
その時には時既に遅いのに、皆手の届く範囲に居る間有る間は、安心しきってしまうから。

5.それからの数十年、これからの数十余年

ここまでの出来事でもまだ10年も経っていない。
確かに自分の人生をこうして振り返ってみても、自慢したり誇れるようなものではないことはわかっている。
ただその1年1年、何もなかった時は一度もなく、大なり小なり緩やかでもあり忙しなくもあり、何か環境の変化だったり自分自身の変化だったりが起きていた。
引っ越しもその最たるものの一つだった。

18年で7回も引っ越しをしてきたことは既に話した通りだが、そのどれもが「したいからした」のではなく「必要だからした」までなのだ。

全て環境の変化からくるものだった。
人間関係から始まって、仕事関係に波及する。
また失敗と後悔と懺悔と再スタートの為もあった。

何気なく過ごしていても、変わらない日常のように思えても、1日とて同じ日はないということ。
ほんのちょっとしたきっかけが、歩んでいる道に分岐をもたらすこともある。

安寧はあくまでもその日その日の終わりに感じるものであって、決して長い期間で感じるものではないということを知ったように思う。
それほどまでに、今この時代を生きるということの不安定さをひしひしと感じている。

今続けている仕事も12年になる。
その間に起きた東関東大震災も11年。
コロナウイルスによるパンデミックも2年が経とうとしている。
いつまた大きな自然災害や事件が起きるかもわからない。
いつまで今の仕事を続けていられるかすらわからない。

そんな時代に、こうしてたったひとつの冗談めいたゲームのゴール前に立つことで、自分の今までの人生を振り返ることが出来たわけだ。

これこそがゲームクリアと勝者への、何よりの賞品に他ならない。
2月22日を迎えてから、そう思う数か月を過ごしてきた。

6.人生≠ゲーム?ゲーム=人生!

なにごとにも始まりがあって終わりがある。
このゲームも本来であれば2022年2月22日2時22分に終わるはずだった。
だが本当にそうだろうか?

もしも10人くらいしかこのゲームのことを覚えている人がいなかったとして、
もしも当日現地に辿り着けたのがその10人だけだったとして、
果たしてめでたしめでたしで終わっただろうか?

先生の当初の賞品案であった”永遠のいのち”
終わりの”ある”ゲームを始めた主催者が、終わりの”ない”ものを与えてくれる。
この矛盾。

人生を物語化することで、その人生は永遠となる。

だがその物語は18年間に過ぎない。
人生はこのゲームがエンディングを迎えても、更に18年また18年と、命の尽きるまで続くのだ。
だとするならば、この18年間のゲーム(人生)を生き抜いてきた僕たちにとって、
更にこれからの18年を生き抜くこともまた人生(ゲーム)の続きなんじゃないだろうか。

現実は10人どころの騒ぎではない、本当にたくさんの同志たちで溢れたものだった。
誰も想像できなかった展開だ。
当初の形を変えて、この同志たちみんなの18年間を永遠のいのちとして残るこの文章。
これが電子でしか残せないことが悲しくて悲しくて仕方ない。

叶うならば、どんなに分厚かろうとも一冊の本として作ってほしい。
唯一無二の初版本。

新しい世界と新しい人生(ゲーム)へ。

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