【仮説】五島諭の短歌〈女の子に守られて生きていきたいとときどき思うだけの新世紀〉における結句の


つまり、

という言質によって、二種類の結句を対比できる。

【邪推】
しかし、あまりにも〈穂村弘〉の影響下を感じるが〈穂村弘〉以後の展開として
初期の「六畳間」では、いささか〈永井祐〉の路線になる……なりかねるのを回避、あるいは脱却するための「けの新世紀」なのだ
というのは、どうだろう?
(つまり「新世紀」は〈穂村弘〉の領分だ、と見立てている。が、しかし実際の〈穂村弘の短歌〉そのもの
というよりは〈穂村弘〉の影響下に見える、と言っている)

【自説】
六畳間/新世紀
には、どちらも時代的な(かつ、その世代的な)密接な感覚があった、と思えるが
それぞれに、明確な別があるとするなら
空間的/時間的
な認識だろう、それを踏まえて規模感は段違いであるし
私的/公的
とも区別できる。

先ほど、初期の「六畳間」は〈永井祐〉的すぎるんじゃないか、と言及したが
俯瞰的に「六畳間」にいる〈私〉への矢印 に読めるから、というところがある。

しかし、

歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋

五島諭『緑の祠』

なども、同様だと考えているのだけれど
それは「けの新世紀」という句またがりも、寄与しつつ
〈私〉から外部・世界 への矢印 に読める、ときの美質を感じる
という理由で「新世紀」派だ、と〈私〉は主張できたい。


【それはそうとして】
たしかに、
語義的・意味的な「六畳間/新世紀」でのニュアンスの別を
あまりにも度外視しているかもしれないが……

意味的な、というところでは
一首は、いったん「守られて生きていきたい」という
〈私〉への矢印、を経由している
からこその〈私〉から外部への矢印が功を奏する、と思う
し、このような推移(外部→〈私〉→外部)ではないほうの
「六畳間」を支持する〈平岡直子〉には、どうして……??? と思っているところ

しかし、
「エヴァンゲリオンじゃない?(だから、嫌)」という理由では、なかなか分かりかねてしまう(意図が分からないわけではなく)けれど
どのような見地で〈平岡直子〉が読解しているのか、は興味あります

※青松輝など他の方々にも、ほぼ同様に興味はあります(が、観測上みんな「世紀末」を支持しているように〈私〉には見えている)

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