吉田恭大第一歌集『光と私語』の話がしたい

↑関係ない引用、


吉田恭大第一歌集『光と私語』の話

歌集『光と私語』の読前、勝手に
「〈私〉の身体・感情が、外的要因により別の場所に運ばれる」構造があるのではないか
というイメージを抱いていたし、それが確立されていることを期待していた

だから、予約購入していた歌集の発送完了メールが届いてから
慌てたように思い出して、乙一の小説『夏の花火と私の死体』を読み返した。これは、前半で殺される小学生の主人公(語り手)が
犯人である友だちと、その兄によって死体遺棄される過程を
あくまでも主人公目線で語られる一人称小説だ

けれど、歌集を読んでみると筆者の想像とは違うことに気づいた

当然それはそうなのだけれど、
筆者は「〈私〉の身体・感情が、外的要因により別の場所に運ばれる」という認識そのものが
漠然としているのではないか、と思い至る。
ここで重要なのは「外的要因により」の部分で、
要因となるファクターの指摘と、受動的であることの断定ができなければならない

筆者は過去に、
「ここは、空間ですか?時間ですか?」というテーマで、歌会(参加者には、時間か空間
どちらかで把握されることを意識した短歌を提示していただいた)をした期間がある。(合わせて三回か四回ほど行なった)
これと似たような趣向で、
「この〈私〉は、能動していますか?受動していますか?」
という歌会をしてみるのは、おもしろいかもしれない

時間か空間か、の歌会で何かを得た人がいるかは分からないけれど
個人的には、それぞれへの認識の境界が曖昧なままで
なおかつ、それぞれ区別して把握をすることで
短歌の享受が、どう変わるのかの検討もしきれていないけれど
もしかしたら、
能動か受動か、も判別がしきれないかもしれない……

以前、
受動するための外的要因が発生するのは、物語空間によるものなのではないか
という仮説があった。これは
〈私〉の領域の範囲外に〈私〉の領域を操作している存在がいる、あるいはある
という発想なのだけれど、
(広義の意味での)現実においても頻出する単語では
「運命」
が、イメージに近いかもしれないが何かを「運命」だと認識し信じるのは本人でしかなくて
それでは内的要因になってしまいかねない予感がある、
もっと現実的な例だと、支配的な存在(親や配偶者・職場の上司など)からの外圧
あるいは大小さまざまな共同体による同調圧力や、課せられるイベントなどが挙げられるかもしれないが
そういった類の力の話をしているつもりはないし、そもそも短歌の歌集『光と私語』の話をしているはずで
(けれど、もう少しだけ。つかず離れずのような話を、続けます)

今の筆者の、短歌に対する興味の一つに「作者と〈私〉の不一致」があり
(これは決して、作者本人への興味があるわけでも
作者本人が大事なわけでも、作者本人に関する情報が必需だというわけでもない。)
ざっくばらんで強引な把握だが、
雪舟えま歌集『たんぽるぽる』は〈私〉の我儘を放任し自由させている作者、
穂村弘歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』は〈私〉たちの世界を構築・維持するためにバランスを取ったり操作したりしている作者、
のような、
〈私〉を〈私〉たらしめるための、あるいは〈私〉たちを〈私〉たちたらしめるための
外的な存在(作者)による意識的(前者は、無意識的なかもしれない)な作用がある。
そして、
〈私〉は外的な存在(作者)に気づいていない・認識していないことが前提である。

『光と私語』に連作「ト」が入ることは事前にアナウンスされており、それによって筆者には
「この歌集には、
〈私〉も作者も、お互いを認識・意識している振る舞いのゾーンがあるのではないか」
という予感が生じ、加速していた。
歌集の形で読んだ連作「ト」は、連作の短歌全首が一つの(箱?枠?範囲?色?の)中に収められており
その意味性は強いだろう、

が、
いぬのせなか座が施した本文レイアウトによって及ぼされる効果を、筆者は
まだ、享受しきれていない。
ただ、
本を開いて置いて、手放しで読書することができる装釘によって
見開き全体を俯瞰しようとする時、自由に距離感を得ることができる
ことは、この歌集にとって重要な構造だろう。

  池袋にも寄席がある。二人して暇なので落語家を見に行く

この短歌には「寄席」という空間、あるいは時間を体験しに行くのではなく
あくまでも「落語家」という人間を見に行く、という意識がある。
これは領域の範囲外から、落語家が来ることにより寄席が出現するのではなく
すでに寄席があって、だから落語家が出現するかのような体感がある
人が集まるから広場になるわけではなく、広場があるから人が集まる
人が移動したいからバスが運行するわけではなく、バスが運行するから人が移動する
極端に言うと、そういうレイヤーの世界観。世界観と言うと語弊があるかもしれないけれど、

  犬を尋ねるチラシをたまに見るけれど 犬を見つけたことはないけど

〈私〉の観測範囲では、たまに迷子犬のチラシを見ることになっていてそれで
だから、いつも犬を見つけることはない〈私〉がいる。
システムの構築/範囲の指定・限定がなされていて、そこに準じて言動をする〈私〉がいる。

だいたいの場合は、
作者が実体で〈私〉が像なのだと考えている、けれど
歌集『光と私語』にある短歌の多くは、その逆で
〈私〉が実体で作者が像になっているように考えられる、

ところで、ここまで乱用してきた把握の区別
作者/〈私〉、実体/像
受動/能動、時間/空間
は一体、何?
はっきり区別ができる、ということは
領域が、はっきりある
ということ、
はっきり分けられるから良い、はっきり分けられることが良い
わけではないはず、という感覚は失わないように
大事にしたい、と思いつつ

それはそうとして、
『光と私語』の読者である〈私〉は、
どのような位置に立てるのだろう、
立てばよいのだろう、
もっと、たくさんの企てがあるし
もっと、たくさんの感じ取れる何かがあるような気がしていて

もっと、知りたい
そんな歌集
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
吉田恭大歌集『光と私語』購入ページ
https://inunosenakaza.stores.jp/items/5c1da4862a28624c2c4d68ca

吉田恭大本人による「短歌で何かする」企画
『6畳の白い部屋その床面にあなたは水平に横たわる』(映像上映)のお知らせ
https://note.mu/nanka_daya/n/nd6e282122898




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?