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あの鑑賞の話 ー「大橋 藍 |パパ」  

 加害者と被害者との関係について考えたとき、書き慣れた言葉がすぐに載せられるネット空間について考えてしまう。それは、SNSを通して、プライベイトと公共との境がみえなくなってしまった昨今の状況をみるにつけ、常に考えなければならない問題だからだ。

 大橋藍の個展について書こうと思う。ただ、どこまで書けるのか悩んでしまった。作家の個展であるのだが、作家自身の親族を直接作品として提示した作品が揃っていたからである。作品について書くことで親族について書いてしまう事になるのではないのか、とも考えてしまうが、ここでは展示された作品についてひとつずつ触れていってみよう。

 まず、お菓子が展示された作品が目に入る。これは「アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子」(2018)という長いタイトルの作品であり、この作品が大学の卒業制作となっている。一見するとただのお菓子であるのだが、タイトルを読むと、何故、このお菓子がここに置かれているのかはっきりする。お菓子は食べられるものだが、食べない人がいて、その人が販売された場を理由に「食べない」という態度を取った、その行動がタイトルから分かる。ここで重要になるのは展示された空間であり、展示された場によって、作品の意味が変わっていった経緯がこの作品にはある。

 東京の美術大学には毎年、履修科目の中に「卒業制作」というものがあり、制作された作品が大学で展示され、後に展示された作品は五美術大学展(通称、五美展)で展示されるシステムがある。そこで、この作品は五美展出展の際に、腐敗の恐れを懸念した運営側が出展を拒否した。それにより、作品は様々な問題を抱え、結果的にあいちトリエンナーレの表現の不自由展に出展される事になる。ここで、作品は展示される場によって別の意味が加わり、鑑賞者はその意味について考える時間が発生するのだが、本質的にはその意味と展示される場について考えなければならない。

 向かい側の壁に展示された写真群、「父の視点(家族写真)」(2022)は大橋自身の父親が撮影した写真であるのだが、一見するとありふれた「家族写真」としてみえる。が、この写真は大橋にとって、現像することでさえ躊躇するものである事を鑑賞する我々は知ることができない。それは「家族写真」というものが実家のアルバムなど、ありふれた存在として常に別の意味を持って我々の中に刷り込まれているからだ。この意味と展示によって発生する意味について考えたとき、作品というものはどういった存在なのか考えてしまう。

 次の部屋にはプロジェクターとモニターで映像が流され、仏壇やマリア像が置かれている。一瞬、戸惑ってしまったが、「パパ」という人物についての展覧会の趣旨がまずあり、それにまつわる展示である事を再度、作品リストを見て確認する。そこで、「追慕」(2022)という映像をまず見ると、車内にいるスーツ姿のある男がスマホで会話をしている。その会話を聞いていくと、その男性の母親?に電話をしている様子が次第にはっきりしていく。「結婚を予定しているらしい彼女」について話をしているが、その「彼女」がどういった存在なのかはっきりしない。記号化されてしまった前提がその会話の中で感じ取れる。

 その隣にプロジェクターで投影された作者が流れている映像、「パパ」(2019)がある。その映像では、家の中でカメラに向かって話している大橋自身がいる。そこに“ある男性”らしい人物のぼんやりとした画像が重ねて流されている。話している内容を聞くと、ある男に暴力を振るわれていた事がはっきりしていく。約10分の映像作品なのだが、話をしている大橋は冒頭、起こった事実について話している。が、次第にその男に別れの挨拶をしている様にみえる。この挨拶をする事が映像をみる人にとって、何らかの回路を示しているのではないのか。それはある種の「救い」にも似たもので、その演出がある事で別の意味がある事を鑑賞者は気付かされる。そう、弔うための展示であり、それを見ることで鑑賞者自身の家族はどうだったのかそれぞれ持ち帰る事ができる。

 主に映像についての話よりも、感情についての話になってしまうが、大橋自身が出展された「あいちトリエンナーレ」のテーマも「情の時代」である。英語のタイトルは感情を飼い慣らす、となっており、主語が「わたしたちの」と「きみたちの」となっている。作品鑑賞を通して、鑑賞者である主体と他者である客体、お互いにどういった回路を持つ事ができるのか、作品鑑賞を持ち帰り、その事について人と話をする。つまり、この展示に於ける鑑賞は、展示を見終わった後から始まるのであり、そのためにあの映像で流された挨拶が存在するとなると、どうなのだろう。

 鑑賞は展示室のみ行われるのではなく、そこから離れた外で展示について、家族について話す事で行われ続ける。それが引いては作品と向き合う事になり、日常と地続きになって、並走していく。その展示後、起こるであろう「作品鑑賞」について考えさせられる展示であった。

「大橋 藍 |パパ」(北千住 BUoY)
2023/1/11 - 1/25

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