よしなしごと よん

もうたくさん疲れてしまった
人間関係向いてない

ドライ、といわれる人たちにずっと憧れているけれど、私はどこまでもウェットで、もうびっしゃびしゃのどろどろで、愛情と言えば聞こえはいいかもしれないが、まあ、執着なのかもしれない。

いつかわたしにサンクコストの話をしてくれた友人がいて、わたしが“損切り”するのを手伝ってくれたけれど、わたしはそれ、きっとめちゃくちゃ下手だった。
一度好きになったものをどうしても嫌いにはなれなくて、離れることができなくて、過去に縋ってしまって、戻れないのにずっと延々と巻き戻しの方法を探してしまう。
そして、これが本当にだめなところなんだけど、相手もそうでしょ、ね、そうだよね、と期待してしまう。

他人への期待、というのはわたしがここ数年間で自覚した弱点なんだけど、未だにコントロールできないでいる。

わたしはあなたが好きで、あなたもわたしが好きでしょ、と、そう思うのは(そう思うに足る根拠があるなら)たぶん悪いことじゃないんだけど、根本的に「好き」の内訳、種類がちがっていること、やらかしてからようやく気付く。

べつにみんな、代替不可能性なんてない。
1人友達が減ったってまだ99人の友達がいるし、恋人の枠にはだれかひとり置いておけば、埋まっていれば、ハマれば、たぶんいいんだろう。
私はそうじゃなくて、ひとりひとりにその人しかはまらない形の枠があって、その人がいなくなれば、いなくなったことを思い知らせる空の枠だけが残るから、もうずっといつまでも心の容量を食ったままになる。

本音でぶつかりあうとかたぶんもう流行らない。
自分の機嫌取りは自分のなかだけで完結させなければいけないし、そのためには他人への期待、依存、執着、ぜんぶなくしていつでも「しょうがないね」で断ち切れるようにしておかなけばいけないし、“終わった”ことにいつまでも傷ついているなんてことはあってはならない。

対戦ゲームで相手がとっくにログアウトしてるのに、「まだ終わってない」って泣きじゃくりながら居座り続けてるの、ただの馬鹿だしみじめだよ。

話がそれちゃった。

完璧な人間なんていないので、近づくほどに嫌な部分が見えてくるし、近づかれるほどに自分の嫌な部分だって露呈してしまう。長くなるほどに相手も自分も変化するから、新しい嫌な部分も出てくるし、今まで大丈夫だったことが嫌になってくることもある。

そういうことわたしは言いたいし、言われたいと思っているけど、たぶんそうじゃない人も多くて、スルーできなくなったらそっと離れればストレスもなくていいじゃん、という人の気持ちもわかる。
でもわたしは、ひとつのものを修理しながら長く大切にしていきたいし、自分も気付いていない少しの瑕疵で気付かないうちに丸ごと捨てられるなんていやだ、と思う。

でも、そういうことに強い拒絶反応を示す人は、根本的にわたしと合っていないのかもしれない。価値観の違いは許容しあえばいいものと、どうしようもないものがあるけれど、これって後者なのかもしれない。

話し合いのテーブルに座ってくれないうちはわかりあうのって無理だし、まあ気が向いたらこっちに来てくれるかもな、相手にその気があるならこっちが行くこともできるし、しばらくはお互いがお互いに呆れながらぷらぷらしてればいいじゃん、と思っていたけれど、怒りと呆れと困惑のあとに悲しみがくるとは思わなかった。


自分は相手にとって大切ではないんだ、と思い知らされることほど辛いものはないな。
と思うことすら傲慢なのかしらね。

やらない後悔よりやる後悔、とよく言うけど、私はたぶんやり方を間違えてしまうので、いつもやって後悔しています。一生何もしたくないな。

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