美しきものこそ善

私はもう10年近く、実の姉にブスと呼ばれている。

ブスと“言われている”じゃなくて、“呼ばれている”。呼称。二人称がブス。

姉が大学生になってからはほとんど顔を合わせなくなったので、今では1ヵ月に2回くらいしか呼ばれなくなったけれど、中高生のときは毎日毎日誹謗中傷の嵐だった。

おいブス、目が汚れるんだけど、お前まじきもいよ、うちの視界に入らないでくれない、ブスが化粧したってブスはブスだよ、うちみたいに可愛く生まれなくてかわいそうだね、勉強しか取り柄のないブス、うちはお前と違って可愛いから勉強できなくてもいいの、ブスがうちの真似しないでくれる(※してない)、ブス邪魔、ブス早く消えて、死ねよブス、ブスブスブスブスブス……

肉親じゃなかったら完全にいじめなのになあ、と思いながら罵詈雑言を浴び続けた結果、

中学3年生で醜形恐怖症気味になった。

写真を撮られるのが怖くなり、友達と写真に写るよりも画面の外でカメラを構えることを選ぶようになった。もともと撮ることは好きだったし、周りにとっても常にカメラマン役を買って出る人間がいることは好都合だったと思うから、それはそれでよかったんだけど。

中学の卒業式の日に私が呼びかけて撮った、私以外のバレー部12人の集合写真を見るたびに、当時の気持ちを生々しく思い出す。すごく良い写真だけど、私が美人だったらたぶん、撮られることはなかった写真だ。


っっって暗い感じに書き始めてしまったんだけど、今は当時と比べてコンプレックスはだいぶましになっている。

というのは「顔なんて関係ない!人は中身が十割☆」思想に目覚めたからではない。
シンプルに、当時より自分の求める外見に近くなったからだ。

いや、今でも顔面コンプレックスはめちゃくちゃあるし自分のことは心の底からブスだと思ってる。まず第一に口ゴボなのが致命的に無理だし出っ歯だしアゴないし唇厚いし中顔面長いし鼻低いし小鼻大きいしアトピーだしクマ酷いし目小さいし涙袋ないし眉毛ないしデコ広いし本当に今すぐ顔面剥ぎ取りたい。

けど、脱毛も含めて何十万も美容につぎ込んで自分の顔の欠点把握して少しでも理想に近づくように努力して化粧覚えて、あとついでにカメラアプリの恩恵にあずかれるようになったから、当時よりは明らかにましになった。

わざわざコンプレックスをさらけ出すこともないので、大学の友達には凄まじい顔面コンプがあることを驚かれたりもする。
でも、中高一緒だった友達(の一部)には、私がいかに自分の顔が嫌いかはなんとなく想像つくんじゃないかなあ。


ここまでで想定外に1000文字くらい使ってしまったんだけど、本題はここからです。

さっきも言ったけど、私は容姿コンプレックスを克服する方法を、思想ではなく容姿の改善に求めた。

つまり私は依然、外見至上主義≒ルッキズムを克服しちゃいないのだ。

フェミニズムを学んでいたら遅かれ早かれたどり着くのが「ルッキズム」という差別の弊害だと思う。私は大学2年生のときに初めてこの概念を知った。

女性は特に、社会的な扱いが身体的魅力によって差別されることがある。
魅力的でない容姿を持つ人が不当に扱われることもあれば、逆に容姿が優れていることだけを取り上げ公正な評価がなされないことがある。たとえば女性アスリートが「美人アスリート」のレッテルを貼られて実力を評価してもらえないとかね。

特に私は後半に関して知識も配慮も足りていなくて、きっと過去に嫌な思いをさせてしまった人がいる。読んでいるかはわからないけど、ごめんなさい。
そうした反省もあって、今後はルッキズムに対して敢然と立ち向かわなければ、異を唱えなければ、と思っていた。容姿差別は絶対的に悪いことだから、反対しなくちゃって。

でも、結局わたしには骨の髄まで美への執着と醜への恐怖が染み込んでいる。

今でも自分はルッキズムに晒されているはずで、それに傷付いてきたはずなのに、私が望んでいるのは差別の根絶ではなく、自分が美しくなって被害者から抜け出すことだった。

だから、友達が披露するルッキズム的なジョークを咎められない。心の底から嫌だと思うこともできない。本当は非難すべきなのに、流してしまう。私が被害者ではないから。

あらゆる差別に立ち向かう人になりたいと嘯いているくせに、本当に情けなくなる。


と言いつつ言い訳みたいで申し訳ないんだけど、この世界で「人は中身が十割☆」って思える根拠、なんですか。

私が通った中高は女子校だったので、容姿が異性からの承認に関わることはなかった(この点に関しては本当に良かったと思っている)。
その一方で、友人間での容姿の評価はなかなかにシビアだったと感じている。ブスが蔑まれることはなかった代わりに、美人が徹底的に担ぎ上げられた。私も担ぎ上げる側の筆頭だったからよくわかるけれど、あれはもはや信仰に近かった。

大学に入ってからは、改めて美人の持つ求心力を見せつけられた。一切の面識も共通点もなくたって美人であれば話しかけてもらえるし、覚えてもらえるし、気にかけてもらえるし、好感を抱いてもらえる。無条件に承認される。
もちろんそれは美人ならではの生きづらさと表裏一体なわけだけど、外野のブスから見ればそれでも羨ましかった。代われるもんなら代わってほしかった。

中でもこと異性からの承認という点に関しては容姿がダイレクトに影響するから、「中身で勝負☆」とか甘ったれたこと言ってらんないんだろうなあと思う。

うちの高校出身者の習性なのかもしれないけど(私だけだったらごめんなさい)、大学の友達に高校のめちゃくちゃかわいい子の写真を見せて「どや!私の友達かわいいやろ!」と自慢することがある。
私も大学1年生の春、新しくできた共学出身の友人Iちゃんに私の自慢の友達2人の写真を見せたのだけれど、そのときに言われたことを今でも覚えている。

「めちゃくちゃかわいいね、でもモテたいんだったらこの子たちと一緒にいちゃだめだよ(笑)」

えーーーーーそんなこと気にする?
私は正直あんまり男ウケ♡とかの優先順位が高くない方だけど、普通の女の子ってそんなこと考えて友達選んでるの!? と思ってしまった。
私はその子たちの顔も中身も大好きだから仲良くしたいし、異性からの承認と彼女らとの友情なんて天秤にかけるまでもなかった。
恋愛って競争なんだなあ、こわっ というのが私の返答だった。

それでも、Iちゃんの言うこともわかる。
同じ回数だけ新歓に行っても「○○ちゃんと一緒にいる子だよね?」と言われること。「まじで○○ちゃんかわいいわ、正直みんな狙ってるよ」なんて話を聞かされること。誰かが選ばれることは裏を返せば自分が選ばれないことであり、それは多少の苦痛を伴うこと。
人生のどの場面でも感じてきたことだった。

私は人間関係に恵まれたのか、直接的に容姿にけちをつけられることは(姉を除いて)なかった。それでも、美しさがこれほどの価値を持つ現状を目の当たりにして「私の価値は顔じゃない☆」とか言えるほど自己肯定感高くなかったし誇れるほどの価値なんてものもなかった。

ああ、重ねがさね本当に情けないな。
どこまでいっても私が憎んでいるのは醜い自分の顔であり、ルッキズムという絶対悪を批判できない自分の価値観であって、「ルッキズム」そのものではなかった。
他でもない私自身が他人を容姿でジャッジしているんだから、当然といえば当然だ。ルッキズムへの完全な迎合だ。
嫌だなあ、もうそういうのどうでもいいって言いたいよ。


ハァ~~~~~~~~美人になりてえ人生でした


どうにか顔面取り繕おうと¥10,000のミラコレはたいても¥1,000のマシュマロフィニッシュパウダー使ってる子のがかわいいし、¥4,000のTHREEのリップ塗ったって¥500のKATEのCCリップ使ってる子には勝てない。
えーむりむり、なんで? いやなんでかはわかってるけど結局素材なんだけど、値段分かわいくなったってよくない? 私の頬には¥30,000分のコスメが載ってるんだけど? それに中身で勝負ったってさあ、かわいくて性格も良い子なんてごまんといるじゃん! だって世界が美人にやさしいんだもん! そりゃ美人だって世界にやさしくなるわ! 幼少期からかわいいねかわいいねって言われ続けたナチュラル美人が中身も優勝だわ! 結局人生顔(と親ガチャ)!!!!


はい。


どれだけごねたって私は生まれつきの美人にはなれないし、たぶんあと数十年はルッキズムから逃れられないから、どうにかして少しでもましな顔面になってやろうと足掻くしかない。

「ブスにデパコスは豚に真珠の同義語かな~~」という気持ちと「いやブスなんだから少しでもコスメで底上げしないと」という気持ちがせめぎ合い、最終的に「コスメの値段は戦闘力!!!」って(心の中で)叫びながらデパコスを買っています、毎回。

こんな文章を書いたあとで説得力はまるでないけれど、どうか人の容姿に言及する前に、少し立ち止まって考えてほしい。たとえそれが誉め言葉であっても。それだけで救われる人はいます、たぶん。

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