『見上げる魚と目が合うか?』@azito

大分で開催されている日本劇作家大会の企画のひとつで、第18回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作品「見上げる魚と目が合うか?」を観劇した。

ただしこの日は朝から大雪&路面凍結の中、熊本から大分まで平常の4倍近い時間をかけて長距離運転した直後の観劇だったため、体調は万全ならず。ちょっと残念。

女性2人の会話劇。上演約55分。
とある面接に来た2人の女性が、向かいのマンションの屋上から飛び降りようとしている人を見かけて…、というところから話が展開していく。

以下、観劇中の率直な印象。
途中までは、よくある面白い着想を、安定感のある技術で手堅く会話劇にしてる、という印象だった。ところが中盤、女性の一人が会場をとび出して戻ってきた辺りから、観客として想定できていた範囲の「さらにその先の風景」を見せてくれてる、と感じた。これが劇作家の仕事だ、と思った。

ただし終盤は、個人的には、いつの間にかまた「見慣れた風景」に戻ってきてしまったなと感じた。物語を閉じるために?もしくは扱うモチーフへの倫理観から?…まあでも、目の前の問題に作家として真摯に向き合った結果だ、ということには多分間違いなくて、だからこれは単に好みの問題だと思う。

それでも、これだけは言っときたい、と思ってしまうのは、この物語が「東日本大震災」を契機に生まれたという点について。それはまあ事実なのだろうけど(そしてだからこそ、この戯曲が評価されたという側面もあるのかもしれないけど)、でもぼくはどうしても「向かいのビルの屋上」を「福島(被災地)」の暗喩として観る見方には賛同できない。なぜなら、そういう見方をしないほうが、この戯曲は断然面白いから。

屋上は屋上でいいじゃないか。
観客は、自由なほうがいい。
でも作り手は作品外から観客に影響を与えることもできてしまう。
よくも悪くも。

「作者はじぶんの作品について、語る言葉を持っておくべき」という意見に対して、時々ぼくも反省を込めて「なるほど」と納得することもあるんだけど、でもやっぱ、良し悪しだ。

ぼくはやっぱり観客が自由なほうが好き。

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