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劇作に向けた龍潭譚の分析(5)

第5章 大沼

今章はこの物語のターニングポイントである。少年がいわゆる「神隠し」に遭うまでの行動を描く。けれども、ぼくはこの章を読むたび、なんだかゴチャついた印象を受ける。まずはそのことについて考えてみたい。

前章からこの章までの少年の行動を簡単に書き出してみる。

・少年はふだんは遊ばない子らと「かくれあそび」をするが、いくら探しても誰ひとり見つからない。もしかすると自分を苦しめるために、彼らはこっそり神社から逃げたのではないかと疑う。
・うす暗い境内で、うつくしき女と出逢う。少年は女に手招きされ、「隠れている子の居場所を教えてくれているのかも」と思い、ついていく。
・女に導かれるまま、小さな稲荷の社の裏に足を踏み入れるが、そこには誰もおらず、振り返ると女も消えている。「たそがれの片隅には怪しきもの居て人を惑わす」という姉の教えを思い出して怖くなる。
・社の前を、四つ足の獣(?)の歩く気配がして、「あの女は物ノ怪から自分を助けるためにここに導いたのかもしれない」と考える。
・坂のしたから、少年の家の下男の声が聞こえるが、「物ノ怪が騙そうとしているのかもしれない」と疑い、息を潜める。
・辺りが静かになると、陰から身をのばして「騙されるものか愚かな物ノ怪どもめ」と冷ややかに笑う。が、坂のほうから姉の声が聞こえてきて、慌ててまた身を隠す。
(ここまでが第4章)
・姉と「爺や」が自分を探しながら、社の前を横切る。少年はそれもまた「物ノ怪のしわざかもしれない」と疑ってやり過ごす。
・彼らが去ってしまってから、ふと考え直し、社の陰から飛び出す。「なぜ姉まで疑ってしまったんだろう」と後悔して泣く。
・銀杏の木の陰に、女の後ろ姿を見つける。「姉上」と呼ぼうとするが、これも「物ノ怪のしわざかも」と考えてやめる。
・すると女の姿が消える。見えなくなると後悔の念が湧き、また泣きだす。

そうして少年は、「こんなに怪しいものを見るのは目が曇っているからだ。神社の御手洗で目を清めよう」と思い至るのだが、ここまでの流れが、物語の段取りとして淀んでいるようにぼくには感じられる。「疑う」→「後悔する」の繰り返しが単純すぎるからだ。

いま書き出してみても、やっぱり「物ノ怪のしわざかも」との思いから、みすみす助かるチャンスを逃す(そして後悔する)、という流れが多すぎる。疑心暗鬼の少年の心の揺らぎを追ったのだとしても、物語の手際が悪い。なぜ「うつくしき女」は二度も現れたのか?

ぼくはこの物語の構造を、これから創作する「団地の物語」に取り込もうと考えている。そのとき、このくどさをどう考えればいいだろうか?

少年は「自ら現実から乖離していくような行動をとる」。しかしそこには少年なりの理屈があり、彼の行動は、結果として彼の本意とは「乖離している」。簡単に云えば、彼の行動はすべて裏目に出るわけだ。それを、いま、ここでこれほどくどく繰り返す必要があるだろうか?

ぼくの考える「龍潭譚」という物語は、少年の「乖離」を巡る物語である。ならばここで、くどいくらいそのことを印象付ける操作は必要なのかもしれない。劇作を始める前までにもう少し考えたい。

少年はこの後、御手洗で顔を洗っているところを姉に発見されるが、毒虫に刺された顔が腫れていたせいで、弟と気づいてもらえない。それがショックで少年は泣きながら町を疾走する。この場面で想起するのは、『かぐや姫の物語』のあの有名な疾走シーンのイメージだ。坂をおり坂をのぼり、野を駆け畦を越え、いつしか森に囲まれた大沼に辿りついた少年は、そこで気を失う(ついに現実世界から乖離する)。

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