劇団唐組「黄金バット〜幻想教師出現〜 」観劇
先日、生涯2回目の唐組観劇。20%の詩情と80%の幼児性の横暴に振り回される時間を愉しんだ。
「黄金バット」「風鈴学級」「モグラタンク」・・・うち捨てられたモノやコトに九十九神が憑いて人格が生じたようなキャラクターたち。そのせいかみんなどこかしら妖怪の面影がある。凋落した妖怪たちの物語。
ぼくにとって、たとえばNODA-MAPの芝居を観たいと思う動機と、唐組の赤テント芝居を観たいと思う動機は、ほぼ同じだ。ひとつは、鍛えられた身体と発声に支えられた台詞の響きに酔うため。そして、そのことば(と響き)を通して、また様々に仕掛けられた演劇的趣向を通して、脳内に駆け巡る鮮烈なイメージに揺さぶられるため。
ちょっと思い出話になるけど、生涯で初めて観た唐組は、とても衝撃だった。2012年に金沢市民芸術村で上演された「海星」。当時療養中だった唐十郎に替わって麿赤兒が出演した公演だ。熊本から飛行機に乗って金沢に到着次第、タクシーで直行。それでも赤テントに着いたのは開演10分後だった。そのせいか話の流れはほぼ分からず、なのに抜群に“面白かった”。いまでもあれは、ぼくの理想の「演劇」のひとつだ。
で、それと比べると今回の「黄金バット〜」には、その衝撃はなかった。残念ながらぼくのなかに、最初のときみたいな熱狂は起きなかった。
なにが熱狂を起こすのか?そのためには、何かしらの「狂」気が必要なのだろう、というようなことを考えた。
ただ、唐組のシステム、公演運営にはやっぱり感動した。あえて言ってしまえば「たかが」芝居のために、あれだけの数の人間が、身体も感覚も組織もシステムも鍛え抜いている、という事実に、深い感動をおぼえた公演だった。
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