農事センター『素晴らしい仮死』@engel

個人的に、とても素晴らしい体験だった。
体験。たぶんこの作品は“観劇”しようとすると、どこかで(観客の中で)破綻してしまうんだと思う。きっと、この作品を観劇しようとしても受け取れるものは少ないんじゃないか(という仮説…)。

観劇モードと体験モード。と、とりあえずそう名付けてしまうと、その大きな違いは、たとえばセリフへの受け取り方に表れる。ここでいう観劇モードとは、「役者が発するセリフはひとことも聞き逃したくない!」という態度ないし欲求のこと。
これは観客としては至極まっとうな欲求で、「ちゃんと作品を味わいたい」という熱心な観客ほどその欲求は高いと思う。
これに対して、体験モードとは、聞き取れないセリフは「聞き取れないもの」として受容し、それを愉しむ(あるいは退屈がる)態度だ。聞けないものは聞けないし見えないものは見えない、ただ自分が受け取ったものだけで、そこに生まれたイメージを体験する…
それが、この作品をもっとも深く味わえる摂取方法だと思った。

まず空間が抜群に良かった。元鉄工所ということで、頭上に剥き出しの鉄骨があったりして、雑然としたなかに趣向があって、それがすごくいい。公演中は、作品が醸しだすものと相まって、この空間がとてもパーソナルな胎内のように感じたりしていた。そして音楽。俳優から発せられることばの数々。身体。照明。映像。会場外の音。観客の立てる偶発的な音。そのすべてを包括的に(そして自由に)受容するという体験。ともすると、帰り道までもが素晴らしい仮死と化す。小さな空間で生まれたパーソナルなイメージが、町へ拡張していく感覚。

それが個人的にとても良かった。

体験、をデザインするものとしての戯曲を書きたい。という欲求が生まれた。

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