サンピリ「赤鬼」観劇@甘棠館Show 劇場

 九州を拠点に活躍する男女4人の役者が、野田秀樹の戯曲を立ち上げる1時間50分。見応えあった。
 この戯曲は、かなり前に戯曲集に載ってたのを読んだ記憶があるけれど、内容はほとんど覚えてなかった。既成の戯曲――しかもこれまでに野田秀樹本人をはじめ何度となく国内外で上演されてきた作品なので、たとえばちゃんとした劇評であれば、過去のそれらと比較して「サンピリ上演版」の独自性や演劇的成果を云々するという方法もあるのだろうけど、ぼくが書きたいのは個人的な観劇の感想なので、ここでは野田秀樹をも含めた今回のクリエイションの総体を「サンピリ」だと見なして、つまり今日初めてこの世に生まれた作品だと見なして、その感想を書いてみたい。

 まずぼくはこの作品を、虐げられし者たちの古典的悲劇、として観た。
 物語としては、ある日海辺の村に現れたひとりの異人が、村人たちから「赤鬼」と呼ばれ差別・排斥される、というのが本筋となる。そこへ、村に住む「あの女」やその兄「とんび」、嘘つきの「水銀(ミズガネ)」らが関わることで物事が動きだす、のだけれど、今回の作品においては上記の「ムラの排他性」「差別」「異物への畏れ」といった、戯曲が好んでテーマとして扱いそうな要素は、むしろ彼らに訪れる悲劇の背景にすぎないと思った。決してそこに焦点を当てているわけではない。
 では、彼らに訪れる古典的悲劇とは何か? それは、ギリシャ演劇を想起させるような、予言的・運命的悲劇だ。劇の序盤で、「あの女」は「赤鬼」に「あんたは、人を喰うから鬼なのよ」と言う。そしてその〈予言〉がいつしか反転し、劇終盤、「鬼が人を喰うんじゃない。人が生きるために鬼を喰うんだ」と悟る。その転回が彼らの悲劇に通じ、作品構造の背骨となっている(というふうに観た)。

 その背骨を支えるために、作品全体に散りばめられた言葉遊びは秀逸。でもその一方で、「差別・排斥」というテーマが背景に退いたことで、たとえば赤鬼がつぶやく「I have a dream」から始まる台詞が、キング牧師のスピーチになぞらえられている、などの趣向は活きてなかったと感じた。

 脚本について、もっとも秀逸だと思ったのは、物語序盤で観客に提示される謎。この序盤の謎を知りたくて観客は物語にのめりこんでいくのだけど、この作品で提示される謎は、「フカヒレを食べた女がその翌々日に身投げして死んだのは何故か?」。なんだそのヘンな謎。すげえと思った。

 あと特筆したい点。森岡さんの「あの女」には、巫女もしくは恐山のイタコみたいな雰囲気があって良かった。劇終盤の水銀(ミズガネ)。舟上での出来事について言い訳するシーンでの「声」に説得力があったと感じた。うまく言えないけど、もし造語で形容するなら、とても「嘘っぺらい」声で、水銀という男をその瞬間感じられたと思った。
 大谷さんはもう風貌からして怪優。以前「駆け込み訴え」を観たときから、ひそかにちょっと注目している。
 赤鬼に関しては、周りの役者を含めた劇空間と、すごくマッチしていたと思う。ただ、今回たぶんもっとも大変な役だろうと思うので厳しめに言うと…。今回、そもそも赤鬼に女優をキャスティングしたことは効果的には働いてないと思った。女優だからダメ、ということは全然ないと思うけど、でも劇中で赤鬼の性別が「男」であることは、水銀の嫉妬を生む上でそこそこ重要だと思うので、そこの説得力はキャスティングによって弱まってたと思った。圧倒的な異物感が欲しかった。

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