劇作に向けた龍潭譚の分析(8)

第8章 渡船

龍潭譚は何度も読んでいるはずだけれど、正直、この章の印象は薄い。記憶に残っているのは、章の冒頭で守刀を胸に抱いて眠るうつくしき人のイメージくらい。でも改めて読み返してみると、この章には、次の9章に向けた重要な仕掛けが施されているのに気づく。「ここは異界である」という読者との共通理解のもとで、少年の五感が大きく歪んでいくのだ。

しかもそのイメージは非常に視覚的で鮮やかである。もっと云えば映画的である。たとえば、うつくしき女が守刀を抱く寝姿を見て、少年が亡き母の死の床を思い出すシーン。

母を失った喪失感が脳裏に蘇った少年は、とっさに守刀を遠ざけようとするが、何の拍子か刃がうつくしき人の肌を切り裂いてしまい、どくどくと血が溢れだす。少年が必死で両手で押さえるがいっこうに血は止まらず、女の着物を真っ赤に染め上げる。かと思うや、ふと気づけば、それは女が身にまとっていた襦袢の色なのだった。

この手の幻視は、いまや映画では(とくにホラー映画では)定番の手法である。また、ここでは色彩の有機的な連帯がある。すなわち出血または襦袢の「赤」が、冒頭の躑躅ヶ丘の鮮やかな「赤」と響きあい、文字どおり作品全体を彩っているのだ。

もうひとつ。朝を迎えると少年は、うつくしき人に仕える老父に背負われて山を下り、小舟に乗せられふたたび大沼を渡る。その場面。少年は幻視とともに方向感覚を失い、さらには遠近の感覚を狂わせる。すこし長いが引用してみる。

舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後に居たまへりとおもふ人の大なる環(わ)にまはりて前途なる汀に居たまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手なる汀に見えき。見る見る右手なる汀にまはりて、やがて旧(もと)のうしろに立ちたまひつ。(中略)はじめは徐ろにまはりしが、あとあと急になり、疾くなりつ、くるくるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて目の前にうつくしき顔の臈たけたるが莞爾(にっこ)とあでやかに笑みたまひしが、そののちは見えざりき。

舟が出たあと、後ろにいたはずの女が前方に見え、左手、右手へと、視界が回りだす。さらには後方に遠ざかっていくはずの女の顔が間近に迫ってきて、あでやかに笑う。これらの視覚的な「狂い」も、ホラー映画ではおなじみの演出手法である。しかもその不安定な五感の狂いは「初めて舟に乗った」という不安定な体感と重ねることで、リアリティを担保されている。

この作品の(ぼくにとっての)一番の魅力は、この五感ないし認知の歪みが、周到に準備されていることである。そしてその成果は、次の9章で開花する。

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