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河童屋を営みたい。

河童屋を営みたい。
できるだけ天然に近い環境で小河童を飼育して、夜市で売るのだ。そのためには、まずは手頃な羊を手に入れなければならない。さすがに昔みたいに人間の子どもの尻子玉を拝借する、というわけにはいかないだろうから。ただ、羊の尻子玉は一生のうち3つしか取れないという。つまり世代交代可能な牧場が必須。前途多難だ。猫の手も貸したい。

考えてみるに、むしろどこかの牧場主を口説いて河童屋に仕立てるほうが早いかもしれない。というより、現実的にはそれ以外に選択肢はない。いずれ法人化して河童部門を任せてもらった上で、部門ごと独立すればいい。そうなりゃ子会社とはいえ立派な河童屋だ。立派な河童屋。そうだ、屋号は立派な河童屋にしよう。夢が広がってきた。

立派な河童屋は、当然ながら株式会社だ。けれども株式を一般公開する予定はない。なぜなら親会社であるところの牧場が、立派な河童屋にたいして100%の出資をしており、つまるところ牧場主が立派な河童屋の大株主であり支配者なのだ。川のものである河童を丘のものである牧場主が支配するとは奇妙な話ではあるが、これが世のことわりというものである。

いずれ牧場主とは、本格的にやり合わないといけないだろう。立派な河童屋の真の独立を勝ち取るために。こちらの軍勢は小河童、あちらは完全武装の羊たちだ。

羊は平和的な生き物だと見られる向きもあるが、実際にはそうでもない。なにしろ群れるのが抜群にうまい。どのくらいうまいかと言うと、群れるという漢字に羊が入り込んでいるくらいの狡猾さだ。ちなみに奴らは、抜群という字にもまんまと入り込んでいる。本質的には奴らは優れた政治屋なのだ。

一方こちらは、いくら立派だといっても所詮は河童屋である。河原乞食という語があるくらい、川のものは資本からは縁遠い。つまりは軍資金に乏しい。意地を張ったところで、これはそもそも負け戦なのである。あまつさえ小河童たちは羊にメロメロである。厳密には尻子玉の産みの親であるところの羊たちを心の底からリスペクトしている。しすぎているくらいだ。

さらに悪いことには、小河童どもは日ごろから河童屋に恨みを募らせている。なんとなれば奴らにとって河童屋とは、奴らを監禁し、夜市で売り捌く者でしかないからだ。そういう意味では小河童どもは羊の軍勢の手先である。これは不幸なことだ。奴らは、知らぬうちに自らを苦しめるところの資本主義の親玉の手先となることを自ら選んでいるというわけだ。

何の話をしているのかちょっと分からなくなった。ともかく河童屋は、もう懲り懲りだ。金輪際かかわり合いたくない。河童も嫌いだし羊も嫌いだ。日がな一日、猫と寝ころんでごろころしているほうがずっとマシだ。ただ、この文章の最初のほうで、なんかうっかり猫の手をどこかに貸し出してしまったせいで、近ごろは猫にも嫌われてしまった。立つ瀬がない。立つ瀬がないから座っていよう。瀬なんかにうかうか座っていたら、それこそ大河童のいいカモだけれども。

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