そめごころ『劇場のすゝめ』観劇@ぽんプラザホール【ネタバレ注意】

ずっと気にはなってたけど、なかなかタイミングが合わずに観れなかった“そめごころ”を、ようやく初観劇。すごく良かった。

観劇前、客席に座ると、目の前に何もない空間が広がる。“素舞台”というより、そもそも舞台の準備ができてない、がらんどうの空間が目の前にある。こんな空間で何を見せられるんだろう、と思ってると、俳優たちによる“小屋入り”が始まる。ちょっとずつ舞台が組み上がっていきながら、同時に「青春」をテーマとした幾つかの物語が演じられ、語られていく。

その劇構造や、物語の進め方、場面の転換の仕方、エピソードの選び方の一つ一つに、センスを感じた。たしかにこれは、ひとつの「才能」の登場だと思った。

また、今回俳優もすごくいいと思った。とくに3人の女優がとても良かった。あの会話のナマっぽさは、ぼくは非の打ち所がないと思う。

で、一応誉めるのはここまで。
ここからはちょっと辛口で。

上に書いたことはぜんぶ本当だし、すごくセンスと才能を感じた、のだけれど、にもかかわらず観劇後の率直な感想は、“惜しい”だった。

何を惜しいと思ったのか。
ぼくが感じたのは、個々ではとても素晴らしい劇を構成する一つ一つの要素が、全体としてリンクしきれてなかったのでは、ということ。
たとえば、何もなかった空間に組み上がった、もう一つの客席。鏡合わせのような不思議な空間が現出して、とてもワクワクしたが、結局それが舞台上で起きるコトと一体となって大きなイメージ(それは感動でも批評性でもおぞましさでも何でもいいけど)を成すことはなかった。
ぼくにとって、アレちょっと面白かったね、で終わってしまった。

それから、劇のおおまかな構造としては、劇団の小屋入りから打ち上げまでの時間の流れと、幾つかの「青春の終わり」のエピソードが重ねられるのだけれど、その重ね方は巧いと思うものの、それらが重ねられたことで、ぼくの頭の中に何か見たことないみたいなイメージが像を結んだかというと、それは起きなかった。
ぼくにとって、アレちょっと面白かったね、で終わってしまった。

あと装置としての車椅子。数ある「センスあるなあ」の中で、あの車椅子だけはぼくは安直だと思った。青春の賑やかさみたいなシーンに重ねて、車椅子に座った男が暗い声で「ぼくはあの時間が永遠につづくと思ってた」とか言うって。あまりに安直なイメージじゃないだろうか。それかぼくの読み違いだろうか?

最後に。自転車で大分を目指す男の、語り口について。いわゆるチェルフィッチュ問題。
これは、ぼくが岡田利規の戯曲を読まなければ劇作してない人間なので、とくに思うのだけれど、あの喋り口はどうしたって「チェルフィッチュ」を思い浮かべてしまう。で、劇作家として(自戒を込めて)それは一種の敗北だと思う。もっと面白い喋り口を見つけられなかった、という意味で。ぼくは当然ながら岡田利規より面白い戯曲を書きたいと思っているし、若い劇作家にもそう思ってて欲しいなと思っている。きっと岡田さん自身が一番そういうふうに思ってる気がする(本人に確認したことはないけれど)。

なんか長くなったけど、そんな感じです。次回作が楽しみな劇団(演劇ユニット)がひとつ増えたというのは、今日の大きな収穫だったのでよかった。


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