見出し画像

あなたもわたしも、死刑制度の「当事者」である。

昨日、家でコーヒーをすすっていたら「ショッキング」なニュースが飛び込んできた。

2017年に男女9人の遺体が発見された事件で、強盗・強制性交等殺人罪に問われていた白石被告に死刑判決が下されたのだ。

世間的にも大きな注目を集めていた事件ということもあって、twitterでは一時トレンド入りしていた。

トレンドを覗くと、予想通り、「死刑が妥当」「死をもって償え」といった投稿が相次いでいた。

死刑判決が出る度に目にするこうした世間の声。

筆者は毎回のことながら心底うんざりしている。

それは何故か。

死刑制度は多くの矛盾と暴力性に満ちた制度であるにもかかわらず、そうした問題がきちんと議論されることがないままに感情論で死刑を支持する人があまりにも多いと常々感じているからだ。

論理的に考えれば、死刑制度など、支持できるはずがないしろものなのだ。

「殺人」という罪に対し、「殺人」で応答するという矛盾

まず確認したいのは、死刑制度は「国家による殺人である」という事実だ。

日本では憲法25条において、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定されている。

この、いわゆる生存権は基本的人権である以上、理念上いかなる理由があれど剥奪されていいものではない。

事実、生存権を保障する制度である生活保護は、「素行」の良し悪しを制度利用の条件としないことを規定した「無差別平等の原則」を掲げている。

さらに言えば、憲法36条において、「残虐な刑罰」は「絶対にこれを禁ずる」とされているのだ。

「生存」を否定し、「残虐な刑罰」の最たるものである死刑制度は、「最高法規」である憲法の規定と明らかに整合性がとれない。

死刑制度を支持する人の多くは、「人を殺めた人間が生きている権利などない」と主張する。しかし、死刑制度を実行するのもまた人間である私たちだ。

「人を殺めた人間に人権はない」のであれば、死刑制度によって構造的に殺人を行うことになる私たち一人ひとりもまた、人権を失うことになってしまう。

そもそも、殺人という罪に対して、また新たな殺人をもって応答しようということ自体に大きな矛盾があるのは明白だろう。

「遺族の気持ちを考えろ」という暴力

死刑を廃止すべきだと言うと必ず「遺族の気持ちを考えろ」と言う意見が出てくる。

しかし、既に述べたように死刑制度を支えているのは社会の構成員である私たち一人ひとりである。

その意味で「死刑を執り行うべきか否か」という重い問いは、私たち一人ひとりに向けられている。

私たちは全員、「人ひとりを殺すか否か」という問いを突きつけられた「当事者」なのであり、「人を殺すという選択に自分がイエスといえるか、加担できるか」という問いにまず向き合う責任を私たち一人ひとりが負っているのだ。

そこに、まず第一に「遺族の気持ちを考えたら」と断りを入れるのは、「あなたは死刑に加担できるのか」というラディカルな問いから逃げている。

もっと言えば、まず自分が死刑に加担する覚悟があるかに答えずに、「遺族の気持ち」を持ち出すという行為は、自身の応答責任を遺族に転嫁させるということでもある。

「遺族の気持ちを考えたら死刑は妥当」という回答は、遺族に敬意を払っているのではない。むしろ、「遺族」を自身が死刑制度の責任から逃れるための方便に利用していることに他ならない。

さらに、「遺族の気持ちを考えて死刑に賛成する」ということは、「死刑という新たな殺人の根拠を遺族に求める」ということであり、「遺族を殺人者に構造的に仕立て上げる」ということでもある。

「遺族感情」を根拠に死刑制度を支持するというのは、遺族に「応答責任」を負わせるという点で、また遺族を国家的殺人の根拠に利用するという二重の意味で、極めて悪質で暴力的な行為である。

死刑制度のもう一つの「当事者性」

ここまで、死刑制度が社会的な制度である以上、私たち一人ひとりがこの「国家的殺人」に加担している当事者であると述べてきたが、ここまでの議論は「間接的・構造的な関与」に関するものであった。

しかし、死刑制度に対する私たちの「責任」は、なにも間接的なものだけではない。

繰り返しになるが、死刑制度を実行するのは神様でもなんでもなく、他ならない「人間」である。

実際に死刑を執り行うためには、首絞刑のスイッチを押す人間が、執行後には囚人の死を確認する人間や、遺体を処理する人間が必要になる。

こうした「作業」が、それを行う人間にとって耐え難い苦痛であることは想像に難くない。

いくら法的な責任はないとはいえ、他者を殺めてしまったという圧倒的な事実から生涯苦しむという人もいるかもしれない。

誰だって、人が目の前で殺されるのを見るのは辛いはずだ。いくらそれが凶悪な犯罪を犯した人物であったとしても、である。

死刑制度に賛成する人に筆者が問いたいのは、こういった死刑執行にともなう様々な「作業」を一部でも引き受ける覚悟があるのかということである。

死刑制度を持つ社会の構成員である私たち一人ひとりが、「誰が実際に刑を執行するのか」という、「国家的殺人における直接的な責任」を有している。

こういった「苦痛をともなう責任」を一部の人間に押し付け、自分は死刑執行にともなう様々な「作業」から遠い安全なところから「死刑は妥当」と主張するのは、控えめに言って卑怯だ。

「殺人を犯した人間を国家的に殺す」という心的コストを負うことなく、死刑制度から得られること(そんなものがあるとすれば、だが)のみを搾取する。こうした行為はフリーライダーに他ならない。

死刑制度をめぐっては、「遺族感情を!」とか、「殺人をした人間は死をもって償いを!」といった感情的な主張が支配的である印象が強いが、そろそろわたしたち一人ひとりが有している責任についても丁寧に確認したうえで、より冷静で建設的な議論がなされることを願いたい。

本記事がそのきっかけになれば本望である。


よろしければサポートをお願い致します。いただいたサポートは、執筆にあたっての文献費用やオンラインなどでの相談活動費にあてさせていただいております。