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再・住所不定無職日記32日目 インド帰国後の初カレーは、人生で初めて食べた父親のカレー

人生で初めて父親の作ったカレーを食べた。三十数年生きて初めて。正直驚いた。家族の形が去年から急激に変化していて、長くも短くもなく生きていると物事はこんなふうになるんだなあと思った。

フィリピンとインドの記録をしたためようにも長過ぎるので、なかなか進まず、ひな祭りなので1ヶ月ぶりに実家に顔を出した。
両親には無職になったこともインドにいた事も話していなかったし、これからも話す気はない。

親子の関係は昨年から様子を変えていた。きっかけは自営業の両親の退職だ。
30年続けたフランチャイズの店を辞めた。再雇用年齢よりは歳をとっていたが、年齢的にも今の社会情勢ならまだまだ働いていてもおかしくない年齢だったし、幸いにも十数年前に移転して好立地を引き当て、店の売上も上々だったそうだ。
が、両親は辞めた。
辞めるに当たり、今後自分達が「いくつまで生きてしまうか」を見据えた上で、貯金をし、然るべき株を売り、保険を見直し、退職したそうだ。辞めるという事と時期くらいしか知らないから、実際はどうやってそう決めたのかわからない。

父は物心ついた時から朝6時前に職場に行っていた。私と兄の朝の世話が必要な年齢を過ぎてからは、母も父について店に行っていた。
どれだけ飲んでも夜は定時の電話に出て、朝は仕事に行った。休みはほぼなかった。少しだけ足を伸ばして温泉にでも泊まろかと母と休みを取り、さぁと部屋食に箸をつけた途端にのっぴきならない事態で帰らざるを得ない不幸が続き、旅行を諦めた。実際、親族の集まりでも祝いの席でも携帯電話で長々と話しては、3人残して先に帰る父を見ていたし、酒を飲んでしまった父に代わり、母が慣れない夜道の運転で地元に帰ることもあった。
そんな2人だから退職後のご褒美は旅行だった。

それまでの親子の関係は冷戦期だった。幼少期は体罰、成人後は過干渉に悩まされ、疑いや憎悪が入り混じり、家を出てからは実家に残した私物を取りに年に数度帰るのみだった。
ところが退職と同時に関係が変わった。
きっかけは旅行の留守を頼まれたことだ。待ち望んでいた休暇がくると、年金と生活防衛費を残してとっておいた資金を使い、新婚旅行以来の長期旅行に出かけた。全国の観光地を数週間かけて回り、その間家に残した亀の餌やりを頼まれた。
顔を合わせるわけではないならと引き受けたが、面倒さと腹立たさとで、数日亀に断食を強いてから家によると、餌を求めて暴れる亀と書き置きがあった。
書き置きには餌やりの説明と、バイト代の変わりの品の説明があった。指示に沿って冷凍庫を開けると、包装紙に包まれた肉が用意されていた。デパートの精肉コーナーで買ったグラム1500円の厚切りのミスジだった。ご丁寧に解凍方法や調理法、タレも用意してあった。亀に餌をやり、ミディアムレアで焼いて、ひとんちの炊飯器で炊いた艶々のコシヒカリにバフバフして食べた。

それから旅行と亀の餌やりは月に一度の恒例となった。「お土産があります」と言われたら無碍にもできないので顔を出せば、紙袋いっぱいに食料が渡される。
仕事が辛いわけではなかったが、精神的に落ち込むとよく断食して痩せる癖があり、たまに頬がこけているのを見ていたからだろうと思う。

この辺りから会話が変わった。
それまでの会話というのは、今何している、ちゃんとしろ、あっちの従兄弟はしっかりしてる、あの時親の言うこと聞いて入ればと後悔するだろ、てめぇの面倒はてめぇで見ろよな、俺らはお前らに頼らない、病気しても連絡しねーからな、だった。一方的に言われるのをただ聞くだけだった。
この頃からは2人は旅先の話しかしなくなった。昔行ったあの場所がどう変わっていたか、楽しみにしていたあそこがどうだったか、天気が、土地が、食べ物が。行ったことのない土地の話は聞くに耐えたので、一応聞いた。次の餌やりの予定のためにも旅の予定を聞かねばならず、旅の計画を嬉々として話すのを聞いた。
1.2時間と話して帰ろうとすれば、夕飯を食べて行けと誘われるようになったから、3回に1回くらいは残るようにした。
2人とも仕事を辞めて習い事などそれぞれ持ってはいるが交流人口が減って会話に乏しくなったからか、いつまででも旅行の話をした。あとは昨年生まれた姪の話も平和な共通話題として常に会話を賑やかした。

冬に入る前、2人がしみじみと「真面目まじめにやり過ぎて、休みも取らずに喧嘩も多く、迷惑をかけた。どうして肩の力を抜いてやってこられなかったのかと思う」とこぼした。あとは死ぬだけだからやっとこんなふうに思えるけどね、と続けた。
ふらふらと仕事を辞めて国内外を彷徨っていた私に対して「わたしらは今やっとあちこちに行けるけど、お前は一人でもうどこへも行ってすごいもんだね」としみじみと口にした。
そういえば十数年前初めて1人で海外に行く前日に父から「実家の鍵は返せ。もう勝手に家に来ないでほしい」と言われ鍵を一切返したが、亀の餌やりをする今は気が付いたら手元に戻っていた。
たらればだけど、仕事が違えば、もう少し仲の良い親子として過ごすことになっていたかもしれないなと感じる一方で、私が父に殴られてきたり、夜中まで立たされたり、大切なものを壊されたり、破れた教科書で学校通ったり、風呂に突っ込まれたり、携帯何台も折られたりしてきた歴史と苦しんだ気持ちへの折り合いはどうしたらいいんでしょうねと胸が苦しかった。

インドから帰ってきて、ひな祭りだからと今日家に寄った。ひな祭りに寄るのは、雛人形が出ていると知っていたからだ。例えどれだけキレても父は雛人形と天神様と皐月人形を出さない年はなかった。何年も家に近寄らなかった時期も多分出していた。母方の祖母が買ってくれた高級品で、金沢金箔の屏風だけでも10万以上するといつも母が自慢していた。
帰るとやはりお雛様が出ていて、買ってきたケーキを飾ってから3人で食べた。1か月見ない間に母は道でこけて骨折してギプスをはめていた。もちろん連絡はなかった。鎖骨だか肋骨だかも折ってしまい咳をすると痛みで泣いていた。
そんなんだから、生まれて初めて父が台所に立つことになったというわけだった。

俄に信じがたかった。父というのは、共働き同時帰宅なのに食事の用意が遅いと文字通り食器を何度も何度も何度もひっくり返して生ゴミの山を作る常習犯で、炊飯器の蓋を折ったし、並んだ皿に手をつけないと思ったら箸がないと言って母をよく殴ったし、漁師町の人間だから半端な魚は食えるかと回転寿司持ち帰ったらペシャンコに叩き潰し、酒を飲んでローテーブルをぶん投げて窓ガラスを全壊させたり、あげたらキリがないDV野郎なのだ。週に一回二回はこうなるので、週に一回二回は飯抜きがデフォルトだった。
流石に今でこそ2人してもう高齢で、怪我や故障や慢性的な病気も抱えているので、手の出る喧嘩はもうしないだろうが。

信じられない様子が漏れ過ぎていたせいか、父がカレーを作ると乗り気になってしまった。そこからは母が横でちょこまかと包丁の持ち方や切り方を指導し、190cm近い父が腰をかがめて野菜を切ったりり、洗い物をし、私はと言えばその様子をひたすら写真に撮って兄にメールしていた。
肉を切ったら包丁もまな板も洗う、包丁から手を離すときはまな板と水平に、キャベツは押して潰して千切りに。危なっかしくもカレーは順調に出来上がり、私は3人で台所に立ちながら仲のいい親子みたいだなと外から眺める気持ちでいた。

カレーは家カレーの普通の味で、少し味が薄かったけど普通に美味かった。おかわりしてあげたかったけど、未だにインド帰りで胃腸が死んでて食べ切るのに必死だった。

父は得意そうにしていて、お礼を言うと嬉しそうにし、久しぶりに少しだけ酒を飲んで、3人分の皿洗いもしてくれた。兄からは「どういう風の吹き回し?」と連絡がきた。

おかわりできなかった代わりに「明日も食べたいから」とカレーをタッパーに入れて持ち帰ることにした。ご飯ももらった。

母は父より歳上なので「先に私が死んで父さんが一人になったときの良い練習でしょ。一人でできるようにならないといけないんだから」と笑った。そこには、例え近くに住んでいても私や兄を頼る選択肢が鼻からないことが自然に表れていて、実際頼られたら私は困るし、過去のことを考えると助けたいと思えるか自信がなかったから、そう考えてもらうほかないのだった。だけど、ほっと思えるほど罪悪感を感じないでもいられないのだ。
父は、「死ねないんだから、生きるしかない。いつ死ねるかわからないんだから」と明るいが残念そうに言った。私も全く同じ気持ちだ。

人生こんなに経ってから父親の作ったカレー食べる日が来るんだなと思うと、物事は時間と共にそれなりに形を変えるんだな、これからも色んなことが変わるだろうなと当たり前のこと思った。私も気がつけば行くはずのなかったインドにいたし、父だって台所に立っていた。
こうした変化にたどり着くために、きっとこの人生のこのルートでなければいけなかったんだろう。この道でしか、辿り着けない場所だったんだろうと思った。


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