こんなのって詩とは言えないと思いますし
かといって日記にも分類出来ないものなのかなって思うんですけど
本当はこうやって流れるように喋っていたほうが
僕が僕であり 僕の本質をついている言葉なのかなとか
思ってみたりもするんですけど
けれどこれって具体的に何かしらの技術が使われているわけでもなくて
ただ書き連ねられた記号だけがそこにあるだけで
芸術とは言えないというか、程遠いものなんですよね

でもこういう魂みたいなのは人それぞれ持っているものだとは思うんですよ
それを形にできるかできないかで分類って変わっていくもので
技術を使って音になれば音楽にもなるし絵を描ければ絵画にもなるし
言葉を工夫して使えば詩にも小説にもなるわけですよね
そういう見てもらう工夫みたいな
もっと言えば『魅せる』かどうかみたいな
そういうところなんじゃないかって
最近考えているところなんですけど

こうやって人にみせることを前提に書いている文章って
やっぱりどこか繕いというか
どう見えるかなとか、どう伝わるかなとか一定数は考えていて
少なからず『魅せ方』みたいなところは考えているつもりなんですけど
そこに自分の深淵が見えるかどうか、見せられるかどうかみたいなのは
どこかやっぱり曖昧で、線引きなんかもあるわけなくて
「なんとなくこれいい」「なんとなくこれ違うな」とか
やっぱりそういう主観が入っているんじゃないかとも思いまして
いつもは自分の好みの思想や意見みたいなものをはっきり述べる人間も
そういう曖昧なものになったとたんに疑問符で終わらせて、濁して
なんか卑怯だなーって思ったりもするんですよね
責めているわけではないんですけど

っていう言葉にも捉え方によっては
「本当はこう思っているんじゃないか」みたいな思考が巡って
その裏の裏の裏の裏の奥の奥の奥の奥、みたいな
どこまで思考を巡らせられるか勝負みたいなのを
自分の中で一人で勝手にやってたりもするわけですよね
でもそれを
「考えすぎ」で済まされるのもなんだか癪なような気もしてならなくて
でも「そう見えるよな」ということもわかってきた時に
じゃあ結局僕は何を言いたんだ って思って
最終的に何も言わない、みたいな

それって僕は「優しさ」の一部だと思うんですけど
それすらも「臆病だ」とか言われたらもう、どうしようもないですよね
別にそれで攻撃しよう、殺してやろうって、
その記号を発した人間は思ってもいないんでしょうけど
「言葉に意味はなく、読み取る側が生み出しているんだ」
とかっていう考え方もありますけれど
そんなこと言われても、そんな鈍器をぶん回されてたら
こっちはどうすればいいんですか
守れない方が悪いって言うんですか
弱い方が悪いって言うんですか
振り回されている周りにいるのが悪いって言うんですか
そこから逃れられない場合は一生殴られ続けるしかないんですか
そこから抜け出そうとして、仮に抜け出したとしても
そんなにぶん殴られ続けていたら
そこから解放されたとしてもボロボロですよね、ボコボコですよね
それも早くそこから逃げなかった自分が悪いとか
自分はただ権利を使っただけだとか
言うんですか
そんなのあまりにも残酷すぎないですか
あまりにも暴論ではないですか
これも力がないのが悪いんですか

それは力がないからそうですよ
僕は弱いので、どうすることも出来ないんですよ
あなたみたいにそこまで強くはないので
こんな無駄口しか叩けないんですよね
はい、ありがとうございました。さようなら

じゃあ力を持てばいいのかって話
実際、ある程度力をつければ幾分楽にはなると思います
そして知識をつければなお、
生きられる場所、生きられない場所もわかってくるので
だいぶ身のこなしは軽くなったとは思うんですけど
今度はそうやって守るために日々身を削らなければいけないという話で
削りに削られ何もなくなった人がついには死ななければならない
なんていう話も大それた話ではなくて
身近に、そこに、あるんですよね

脆く繊細で儚くて美しい清らかな人間から死んでいくなんて
殺されていくなんて
なんて残酷な世界なんでしょうね

でも僕はそういうところを愛してるんだろうな
現実でなければ生きられないし
限界がなければ制限がなければその美しさも尊さもないのだろうなと

その不自由さを愛してて
たとえ自転車のタイヤの空気が抜けたとしても
僕は歩きたくないんだよな
いくら乗り心地が良くなくても
前に進むのが遅くても こぐのに疲れたとしても
歩いて疲れるよりも この自転車のスピードがいい
この景色の流れ方がいい
新しいものに買い替えたら 軽くて速いことも知っているけど
僕はこの使い古した自転車がいい
空気が抜けて
『ああ、もうこの先長くはいけないんだろうな、遠くへはいけないんだな』
って思ったとしても
じゃあ買い換えようとはならないのが僕で
僕はこいつと共に生きてきたから
それを捨てて、なかったことになるくらいなら
僕はずっとこの自転車でいい
この自転車がいいって
その不完全さを不自由さを楽しんでいるんだろうなって

そう考えると僕はこの先もなんだかんだ生きていく気がするんですよね
全然死にたいですけど
死にたいかと聞かれてはいと即答したのは紛れもなくこの僕ですけど

「萎えた」「でも捨てられない」って言っている人を見ると
ああ、この人はこの先も生きていくんだろうな
生きていける人なんだろうなって思うんですけど
こうして僕が今ここでこれらのことを書き残している時点で
僕自身も傍から見ればそういう人間に見えるんだろうな、とか
こうして言葉を使えているなら生きていける人扱いなんだろうな、とか
思ったりもして、やっぱりなんだかんだ生きていくのかな
いつか終わるのに

人生最大のネタバレで、人間は死ぬって知っているからさ
つまらないんだよ、何もかも、つまらなくなってしまう
僕にはいつも終わりが見えるから
それなら初めからない方がいいって
でもその過程が楽しければいいって
矛盾している自分が存在していることも知ってしまっている
その揺らぎが楽しかったのに
楽しんでいたのに
なんだかどうでもよくなってきたよね

本当は自分が宙ぶらりんの存在で
じゃあいっそのことぎゅうぐらりんしたいですよね
(この表現凄くいいですよね)
みたいな話までもしたかったのに

正直もうどうでもよくなって
読み返したらもうこの文章を外に出さなくてもいいやって気になることも
割と目に見えているので読み返さずにこの勢いで公開しようと思う最中
あー本当にこの話どうでもいいな とか
僕だったら他人のこういうどうでもいい話興味ないな とか
それでもこうやって文章にして外に出そうとしている時点で
自分もそのどうでもいい話と同じことをしていて
興味もないどこも知らない誰かの文章がここにあるとかいう
皮肉というか矛盾というか
ひねくれている部分が前面に出ているところとか
やっぱり詩よりも素直な自分のありさまが出てるんじゃないかなとか
また思い返してみたりもして

こういう話って終わりはないのに終わり、創らなきゃいけないんだろうね
とか、本当は終わりないすとーりーみたいなほうがそれっぽいね
とか、矛盾するものなはずなんだよ、人間は

それでも執拗に正解とか安定とか一貫性とか求められても
ないですよ、あるわけないじゃないですか
一貫して同じものとか、存在するわけないじゃないですか
それ、幻想ですよ、そう思い込んでるだけじゃないですか
いつ死ぬかもいつ破壊するかもわからないって
それだけ自分は、人間は爆弾的な存在なのにさ
みんなそんなこと、気づいてないふりしてるの?
それとも単純に見えていないの?

素直に受け取れたらどれだけいいのか
なんかいいこともない気がするな

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